砕ける波。
 叫ぶ風。

 ――――いやだ。

 地を打つ雨。
 渦巻く雲。

 ――――助けて。

 消えた灯り。
 失われた脚。

 ――――助けて!!






「・・・・・・・・ンジ。サンジ!」
 
「・・・・・っ!!」
 強く身体を揺さぶられ覚醒したサンジの目の前に、何か茶色いものが広がっていた。
 見開いた瞳の焦点が徐々に合ってくると、それは心配そうに己を覗き込んでいる船医だと知る。
 両手で顔を覆い、大きく息を吐く。心臓は早鐘のように脈打ち、僅かに頭痛がした。

「大丈夫か?随分魘されていたから・・・」
「・・・・ああ・・・・」
 いたわる様にそっと問いかけてくるチョッパーに、吐息に紛れてしまいそうな声で答える。
 そろそろと持ち上げた両手は微かに震え、滴り落ちるほどの汗にまみれていた。衣類も汗を吸い取り、ぐっしょりと重く、冷たい。
「本当に大丈夫か?無理してないか?」
「大丈夫だよ。ありがとな」
 大きな瞳で見つめてくる船医を安心させようと、何とか口の端を持ち上げ答える。果たしてそれが笑顔と呼べるものに仕上がったかは難しいところではあったが。

「汗びっしょりで気持ち悪いな。俺、ちょっとシャワー浴びてくるわ」
 ああ。やっぱりさっきのは上手く笑えていなかったみたいだ。

 安心するどころか、泣きそうな表情になってしまったチョッパーの頭を撫で、内心苦笑する。そうして鉛のような身体を無理やり動かし、サンジは浴室へと向かった。
「大丈夫だから。チョッパーは寝てろよ?」
「うん・・・・・」
 扉に手を掛けて振り向いたサンジの言葉に、チョッパーはしぶしぶハンモックへと潜り込んだ。


「・・・・・・・・・・」


 静かに扉が閉まる音。ぎしぎしと小さな音を立てる木製のハンモック。その前に交わされていた会話。
 それらを全て聞いていたゾロは、音も立てずに起き上がると、するりと今し方閉じられたばかりの扉をすり抜け表へと出て行った。




 
 濡れて張り付いた服に眉を寄せながら何とか脱ぎ捨てたサンジは、のろのろと浴室に入りシャワーのコックを捻る。
 勢いよく降り注いだ水が汗で冷えた身体を更に冷やし、一瞬肌が粟立つ。それでもサンジはその場を動かず、じっと俯いていた。
 流れ落ちる雫は少しずつ水から湯へと変化して、冷えてしまったサンジの身体をいたわる様に包み込む。じわりと沁みてくる温もりに、しかし彼の表情は変わらなかった。

「いつまで・・・・・あの場所に居ればいいんだ・・・・」

 温められた肌が赤みを帯びてきたところでコックを捻り、流れを止める。
 軽く頭を振った後、再びのろのろと浴室を出て行ったサンジは、窓を打つ風の音にびくりと肩を揺らした。
「だめだな。何か飲んで、さっさと寝ちまおう」
 纏わり付く水滴を鬱陶しそうに拭き取り、衣類を身につけたサンジは、僅かに溜息を付いて己の城を目指して歩き出した。




「・・・・・こんな夜中に何の用だよ」
 辿り着いたキッチンには明かりが灯っており、不審に思いながらも扉を開いたサンジは、中に立っている人物を目にし軽く舌打ちした。
「酒ならもうやっただろうが。これ以上はねぇぞ」
 視線を逸らし、低く告げる。
 眉根をきつく寄せたまま通り過ぎようとしたサンジを黙って見ていたゾロは、その背中が視界に映ったところでゆっくりと口を開いた。

「風が強い夜。嵐の夜」

 サンジの足が止まる。

「いつも。いつもだ。お前が魘されている」

 両手がきつく握り締められる。

「五月蝿くて、眠れねぇ」

 淡々と告げられた言葉に勢い良く振り向いたサンジは、腕を伸ばしゾロの胸倉を掴みあげた。
 その瞳には暗く冷たい炎が踊っているように見えて、ゾロの目が僅かに細められる。たったそれだけの反応ですら、サンジの神経を逆撫でた。
 ぎりぎりと掴みあげた手に力が込められ、噛み締めた歯の隙間から息を押し出す。

「何も・・・・」

 絞り出すような声は、そこで途切れた。力を失い、次第に下がっていく頭。何時もは月を思わせる金色の髪は、濡れているせいかただのメッキを貼り付けた金属のようだった。



 何も、知らないくせに。

 飢えの恐怖も。

 救いの光が目の前で消えていく絶望も。

 与える為に失った。その残酷さも。

 それに気付く事無く貪欲に生を求めた。その醜悪さも。

 
 未だ其処から抜け出すことが出来ず、助けを求めている己の卑小さも。



 掴んだままの手。俯いたままの頭。息苦しさを覚え、サンジの咽喉がひくりと鳴る。
 両腕をだらりと下げたまま見つめていたゾロは、僅かに口元を歪めた。

「なんかお前、ウザい」

 その言葉に、弾かれた様に顔を上げたサンジの暗い瞳をしっかりと捕らえる。そこで初めて、ゾロは己を掴んでいた腕を振り払うと、目の前の男を突き飛ばした。
 勢いに逆らえず倒れこんだサンジを冷めた瞳で見下ろす。
「何も?ああ、何も知らねぇよ。てめぇの事なんざ」
 投げつけた言葉は瞳と同じ、冷めたものだった。 
「何に囚われているかもしらねぇ。けどな、てめぇが甘ったれだって事は分かる」
 怒る事も忘れ、サンジはきつく寄せられた眉と鋭く輝く翡翠色の瞳、そしてゆっくりと動く薄い唇を見つめていた。


「いつまでガキのままで居るつもりだ。いつまで助けを待つつもりだ」

「覚悟を決めて海へ出たなら、誰かに光を与えてもらおうと思うな」

「自分で踏み出せ。光は、自分で掴め」


 そう言うと、ゾロは踵を返しキッチンの外へと出て行った。
 呆然と見送ったサンジが、扉の閉まる音にはっと我に返る。
 数回呼吸を繰り返し、恐る恐る右手を咽喉に当てる。指先はまだ微かに震えていたが、先程まで感じていた息苦しさは、まるで消え去っていた。

「いやだな・・・・」

 膝を抱え込み、丸くなって肩を震わせる。
 泣きたいのか、笑いたいのか、自分でも分からないままにサンジは口元を引き攣らせた。




 いやだな。どうしていつも、俺が一歩踏み出す切っ掛けはアイツなんだ。




 引き攣った口元から、とうとう掠れた笑い声が漏れる。
 心の奥底に刺さっていた小さな棘が、瞳から溢れ出した雫と共に押し流されていくような気持ちだった。


 失ったものはもう元には戻らないけれど。
 今度あの場所に立ったなら、荒れ狂う海に飛び込んで、あの消える灯りを追いかけてみよう。
 そうして、その灯りの下に立っているだろう、あいつに言ってやるんだ。


「自分で掴んだぞ。文句あるか」



 そしたらアイツは何て言うだろう。

 涙を流しながら、サンジは密やかに笑い続けた。
 嵐はいつか通り過ぎる。

 厚い雲の間から太陽が顔を覗かせるのも、きっともう、すぐ。

                                        END


お題4:疵痕 でした。
心と身体、どっちにしようかと思ったんですが、やっぱりこっちだよねーと。
サンジさん。ちょっとゾロが気になってまいりました。
たぶんゾロ的には「旨いもんくれるけど、ちょっとウザい奴」てな感じでしょう。
まだまだライクにもラブにも程遠い二人です。

では、最後まで読んで下さって有難うございました!
(’08.4.23)

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