「ね、そのピアスって何か意味があるの?」
軽い調子で尋ねた少女の言葉に、全神経を聴覚へと総動員して。
「あ?ああ。これか?」
相手が何と答えるか、一言も聞き漏らさないように耳を欹てる。
「そう。片方だけ三連って珍しいし」
自分の呼吸音すらも邪魔な気がして、息を止める。
「あー・・・・」
背後で交わされる会話に、こんなにも集中している事を悟られないように。
「何か意味があるの?」
精一杯の努力で平静を装い、返答を待つ。
「別に。海に出た頃、どっかの酒場の親父に箔が付くぞとか言って付けられた」
「・・・・・・・・・・・って、なんじゃそりゃあぁぁぁああああ!!」
黙って昼食の後片付けをしていた筈の料理人が大声を上げて振り向いた事に、少なからず驚いた様な顔で航海士と剣士が会話を中断する。
「あ・・・や・・・・」
不審そうに己に向けられた二対の視線に我に返った料理人は、意味もなく両手を彷徨わせた後、乾いた笑いをその場に残して再び後片付けへと意識を集中させたのだった。
アホか、俺は。
アホだな。うん。アホくせぇ。
勢いよく泡立てたスポンジでごしごしと鍋を擦りながら、大きく息を吐く。結局あの後、二人は挙動不審な自分に呆れた様な表情をして見せてナミは測量室へ、ゾロはおそらく展望台兼ジムへ、それぞれ散っていった。
早いとこ、この鍋を片付けて、レディ達にお茶を入れないと。
ああ、それと夕食の仕込み。出来ればクロスの洗濯もしたい。
頭の中でこれからの予定を立てながら、ごしごしと鍋を擦る。僅かに火加減を間違えたのか一箇所だけ焦げ付いた部分があって、それが妙にサンジの神経をささくれ立たせた。
いつかの夜。風と雨の音に魘されていた自分を突き放し、そうする事で一歩踏み出す切欠を与えた男。
あの時最後に見たのは、あっさりと向けられた背中。そして踵を返した時に僅かに灯りを反射して光ったピアス。
何故だかその光景が頭から離れない。
真っ直ぐに伸ばされた背筋。一体どんな生き方をしてくれば、こんなに迷いの無い意思を持つ事が出来るのだろう。
外される事のないピアスは、決意の表れのような気がしていた。
そんな自分勝手な思い込みは間違いだったと、つい先程の会話で思い知らされたのだけれど。
いくら擦っても落ちない焦げ跡に大きく舌打ちの音を立てる。
あの夜から二人で飲む事をしていない。
ゾロの態度は以前と変わりない。避けているのはサンジの方だった。
昼間の喧嘩が嘘の様に穏やかに、酒を酌み交わすのが嫌いだったわけではない。寧ろ気に入っている時間でもあった筈だ。時には黙ったまま、時には他愛も無い世間話をして。
それを避け始めたのは、今そんな時間を過ごそうとしたら、きっと自分はゾロの事を詮索してしまう、そんな懸念があったためだ。
何故、大剣豪を目指そうと思ったのか。
何故、海に出たのか。
何故、その白い刀だけは決して手放そうとしないのか。
何故、そんなに迷い無く進んでいけるのか。
本人が話そうとしない事を無理に聞き出そうとしてしまいそうで、嫌だった。
何より、興味などないはずの男の事を知りたがっているなんて、馬鹿げている。
けれど、そうやって時間が経てば経つほど、意思とは別に心が求めてくる。
知りたい。
知りたい。
知りたい。
どんな些細な事でもいい。あの男があの男たる所以を。
そして、先刻の様に聞き耳を立ててしまう自分が居る。
そして、そんな自分を腹立たしく思う自分が居る。
泡まみれの手が滑って、取り落とした鍋がシンクにぶつかり派手な音を立てる。
再び舌打ちしたサンジは、スポンジを放り出し、序でに予定していた全ての行動を投げ出してキッチンを後にした。
梯子を上った先には、予想通り目的の人物が居て、ベンチに腰掛けて片手でダンベルを弄びながらぼんやりと外を眺めていた。
耳元のピアスが窓から差し込む明かりを反射し、頭を覗かせたサンジの目を射す。僅かに目を細めて残った身体を室内に持ち上げたサンジは、胸のポケットから煙草を取り出しかちりと火を点けた。
思いのほか響いたライターの音に、目の前の男が眉を寄せて振り向く。動きに合わせて揺れたピアスは、キラキラと光を纏い、踊っている様に見えた。
「・・・・・・・・なんか用か?」
「別に」
低く掛けられた声に、一息紫煙を吐き出し答える。
むっとした様に更に深くなる眉間の皺に、そりゃそうだよなと内心苦笑する。余計な諍いを避けるならば、ここで邪魔したな、などと言って部屋を後にすれば良い。
けれど、サンジが口にしたのは別の言葉だった。
「いつも外そうとしないから、もっと大層な意味があるのかと思ってたぜ」
主語の抜けた言葉に首を傾げる男に向かって、自分の左耳を指し示す。
ああ、と得心がいった様に頷いたゾロは、左手でピアスに触れると軽く笑った。
「んなもんねぇよ。ただせっかく貰ったしな。外すと直ぐに失くしちまいそうだし」
「つまんねぇの。何処かの麗しいレディに貰ったとかドラマがあるのかと思ったのに」
「アホか」
軽口を叩きながらも、サンジの瞳はピアスから離れない。
指に挟んだ、一息吸っただけの煙草はどんどん長い灰だけになっていく。
ああ、そう。例え名前も知らない相手でも。それが男でも女でも。ほんの少しの厚意があっただけでお前は大事にしちゃうわけね。
手に入れたささやかな情報。それは一つのピースとなり空白の一部を埋める。
ゾロ本人にとって、ピアスは大した意味を持っていなかった。それは気紛れに近い厚意で寄越された、ただの飾りだった。
けれども、今も光を纏いキラキラと輝いているピアスは。
やはりサンジの目には、真っ直ぐに伸ばされた背中と同じ。強い決意を表しているように見えた。
僅かに埋められた空白。
それは確かにサンジが望んだものではあったけれど。
「灰。落ちるぞ」
嫌そうに煙草を指差し告げた男に向かって鼻を鳴らしてから、ごそごそと携帯用の灰皿を取り出し揉み消す。
これ以上ここに居る事に、もう意味は無い。そう判断してサンジはゾロに背を向けた。
「邪魔したな」
そうして梯子に足をかけてその場を後にする。
「結局何しにきたんだよ・・・」
頭上からそんな呟きが聞こえてきた。
その時視界の端に踊った光は、きっと上にいる男が窓の外を向いた時に揺れたピアスが反射したのだろう。
ただの飾りのくせに、自分の目には特別な意味を持っているように映る、あのピアス。
「・・・・・・俺。やっぱりあんたが嫌いだな」
動きを止め、低く呟く。
それからは足を止める事無く甲板まで辿り着いたサンジは、先程投げ出した予定を消化すべくキッチンへと向かっていった。
END
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