その、香りが。
合図になっていたんだ。
「最近アンタ、展望台に篭る時間が短くなってるわよね」
唐突に掛けられた言葉に、ゾロは寝そべっていたベンチからのっそりと上体を起こし声の主へと視線を向けた。
サニー号の頭脳とも言える測量室。一角に置かれた測量机の上から顔を上げずに口を開いたナミは、真剣な表情のままペンを走らせる。カリカリと小気味良い音を立てて書き込まれていく海図は、この航海士の夢への道標だった。
邪魔をしてしまったならば退室しようかとほんの少し殊勝な考えが浮かんだが、本当に邪魔だったならこの少女は容赦なく自分を蹴り出すだろうと思い直す。
謝る必要のない場面で謝罪の言葉を口にされることを嫌う少女は、同時に遠慮する必要のない場面で距離を置こうとする事も酷く嫌がる。その彼女が声を掛けてきたと言う事は、このまま此処に居る事を許されたと言う事だろう。その代わり、自分の疑問にはきっちり答えろと言う意味も十分に含まれているだろうが。
「・・・・・・・・・展望台だと出入り口が一つしか無ぇじゃねぇか」
疑問形ですらなかった問い掛けに何と答えたものか、数秒考えた末にゾロが口にしたのはなんとも端的な答えだった。
当然意味が分からなかったナミは、淀む事無く書き連ねていたペン先を止めて「なにそれ」と呆れた様に振り向く。しかし、義務は果たしたとばかりにそれ以上は語ろうとしないゾロに軽く肩を竦めて再び海図と向き合った。
「別にいいけど。鍛錬しないと鈍るわよ」
「だからこうやって持ってきてる」
足元に転がっていたダンベルを持ち上げてみせると、こちらを見るでもなくその音で正確に意味を掴んだらしいナミの微かな溜息が耳に届く。それこそ此処でするなと叱られるかと思ったが、どうやらそれもお咎めなしらしい。
「もう。部屋の中が汗臭くなるじゃない」
「窓開けろよ」
「自分で開けなさいよ」
その程度の言葉で済んだ事に、内心ほっとしながら立ち上がり素直に測量室の窓を一つずつ開いていく。開け放たれた窓からさわりと潮風が舞い込み、オレンジ色の髪を揺らした。
踊る髪を押さえた細い指先にふと目を奪われたゾロの口元がやんわりと綻ぶ。
色々と口煩い少女だが、相手に気を使わせずに思い遣る事が上手い。確かに彼女の育った村の人々や某国の王女など、老若男女を問わずに大勢の人間に慕われるはずだ。
かく言う自分も何時の間にか甘えてしまっている事に気付いて思わず苦笑したゾロは、最後の窓を大きく開け放しナミの方を振り向いた。
「なあ。雨、降るか?」
「降らない。空気が乾燥しているし、暫くはこんな天気が続くわよ」
掠めていった風にすん、と鼻を鳴らしたナミが視線を外に向ける事もせずに即答する。匂いだけで分かるものだろうかと同じ様に鼻をひくつかせたが、ゾロには違いが分からない。
その様子を盗み見ていたナミが声を殺して笑っている事も気付かずにムキになってくんくんと外の空気を嗅いでいたゾロは、突然ぴたりと動きを止めて床に置いていたダンベルを持ち上げた。そのまま黙して蜜柑畑へと続く扉に手を掛ける。
「何?どうしたの?」
「いや。邪魔したな」
首を傾げるナミを尻目にさっさと表へ出て行く。後ろ手に閉められた扉を不思議そうに眺めたナミは、下方から響いてきたノック音と入室の許可を求める声に何となく理由が分かったような気がして、軽く息を吐き新たな訪問者を迎え入れたのだった。
ティーセットを乗せたトレイを片手に、器用に梯子を上ってきたのはこの船の料理人だった。人好きのする笑顔を浮かべて、いつも通り歯の浮く様な台詞と共に恭しい動作でナミの前にカップを置き紅茶を注ぐ。
しかしナミは、一瞬部屋の中を見回し他に人影が無いのを確認したサンジが、当てが外れたと言う風に僅かに眉を寄せたのを見逃さなかった。態と澄ました表情でカップの淵を軽く指で弾く。
「ゾロなら居ないわよ」
「・・・・・・・・・・・・嫌だなぁ。俺があいつを探してるわけ無いじゃないですか」
「あら、そう」
頭を傾けて揶揄する様に覗き込むと、浮かべた笑みをなんとも曖昧なものに変化させたサンジが視線を逸らす。
その時、再び舞い込んだ風がサンジの口に銜えられた煙草を撫でて、ほろ苦い香りを室内に拡散させた。
ああ。そりゃ展望台じゃ都合が悪いはずよね。いくら事前に気付いたとしても、出て行くためにはすれ違わなければならないもの。
ただ単に顔を合わせたくないだけなのか、それとももっと他の何かがあるのか。ゾロが滅多に近寄らない測量室に来た理由は分かったが、そこまでする意味が分からない。
さて、自分は何処まで口を出して良いものかとナミが逡巡する間、退室のタイミングを失ったサンジは手持ち無沙汰にポケットから煙草の箱を取り出しては仕舞うと言う動作を繰り返していた。
ここ最近の二人の態度が微妙な事には気付いている。お節介な事はするまいと思うが、なにぶん二人とも自分の限界を超えたとしても素直にそれを口にする人間ではない。まして行動が単純なゾロはそこに至るまでの思考も単純過ぎて、どちらかと言えば頭脳派のナミには理解し難い部分もある。情報も少な過ぎるこの状態では、流石の自分も的確な助言は無理だ。
根本的な解決を諦めたナミは、風が舞う度に鼻先を霞める煙草の香りに、取り敢えずは今の二人の状態を少しでも改善しようと口を開いた。
「ねぇ、サンジ君」
「はい?」
「煙草。もう少し量を控えた方が良いわよ?」
―――――じゃないと、いつまでも逃げられっぱなしよ。
多分この助言は間違っていない。だってその香りはゾロがその場を離れる為の合図なのだから。
後半の言葉を口にしなかった為、別の意味で捉えたのだろうサンジが慌てて携帯用の灰皿を探すのにくすりと笑い、紅茶が注がれたカップを口元へと運ぶ。
少し冷めてしまった紅茶はそれでも良い香りがして、咽喉を通り過ぎる微かな甘さと共に気持ちも和らげてくれる。
意地っ張りな二人もこれ位簡単に絆されてくれれば良いのに。
窓の外。蜜柑畑の方に視線を向けたナミは、次いでようやく見つけた灰皿に煙草を押し付けた料理人を見遣り軽く肩を竦めた。
今の自分に出来る事はここまでだ。後は彼等がどう変わるかによって対応を考えていくしかないだろう。
サンジが自分の言葉の意味を正確に汲み取っているとは思えないが、実行してくれれば彼は合図を失ったゾロを捉えることが出来るかも知れないし、煙草に使われる資金の節約にもなる。
(ま、一石二鳥って奴よね)
口に当てたままのカップに隠れるようにしてほくそ笑むと、ナミは残った紅茶を一気に咽喉に流し込んだ。
消されたと言っても未だ室内に漂う煙草の煙を掻き消す為に、もう少し強い風が舞い込んでくれることを期待しながら。
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