1.
例えば、深夜のキッチンで。
例えば、蜜柑の木の陰で。
突然腕を取り、口付けを与える。
戸惑い固まる唇へ舌を捻じ込み、歯列をなぞり、上顎を撫で、軽く吸う。
相手の肩がぴくりと揺れ、おずおずと舌で応えてきたら、それで終わり。
唇へ噛み付き血が滲むそれを舐めて、肩を突き飛ばす。
「テメェ俺が好きなのか。気持ち悪い」
冷めた瞳で、冷たい声で、氷の刃の様な言葉を投げつける。
目の前の瞳が傷付いた様に揺れ、赤い血の滲む青白い唇が微かに震える。
黙って立ち尽くす男の心が見えない傷から血を流すのを感じながら、俺は更に刃を振るう。
「テメェなんか好きになる訳、ねェだろ」
血を流したままの男へ背を向け立ち去る俺の唇には、ひどく酷薄な笑みが張り付いていた。
お前の瞳が俺以外を映すのは、許さない。
お前の心が俺以外を求めるのは、許さない。
その瞳も心も身体も。
血の一滴までも俺のものでなければ、許さない。
だから引き寄せて、傷付けて、突き放して。
お前の全てが俺で埋め尽くされるように。
例えば、薄暗い倉庫の片隅で。
例えば、月夜の見張り台の上で。
突然腕を取り、口付けを与え、傷付けて。
流れる血に暗い満足感を覚える。
この狂った様な激情を、何と呼ぶのだろうか。
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2.
あいつの声にはきっと魔法がかかっているんだ。
その証拠に、どんな言葉であっても(例え喧嘩の時の罵声であっても)あいつの声が響くだけで、俺はなんだか温かい気持ちになるんだ。
ムカツク台詞しか吐かないくせに、なのに何時までもその声を聞いていたいと思ったりするんだ。
これは絶対おかしい。
普通はムカつく奴の声なんて聞いていたいとは思わないだろう?
だからきっとあいつの声には魔法がかかっているんだ。
いや、もしかしたらあいつが俺の耳に魔法をかけたのかもしれない。
そうでなければ説明が付かない。
ああ、兎に角このまま考えていたって埒があかねぇ。
あいつに直接確かめるのが一番だ。
そう決心して、問題の奴を探して呼び止める。
不思議そうに首を傾げるあいつの目をしっかりと捉えて口を開く。
「お前って実は魔法が使えたりしねェ?」
けれど、俺の問いかけにあいつは黙って笑っただけだった。
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3.
日が昇る時に、おはようのキス。
今日も一日よろしく。
知らなかった。
キスがこんなにも優しい行為だったなんて。
欲望を満たす為ではない。
誘う為でもない。
ただ、軽く唇を重ねるだけ。
ほんの少し触れ合っただけで、身体中に染み渡っていく温かな想い。
相手が其処に居る事を確かめる。
共に居られる事に幸せを感じる。
これからも共に在る事を誓う。
言葉にしなくても伝わる。
身体を重ねなくても知る事の出来る、大切な気持ち。
ありがとう、とか。
お疲れ様、とか。
頑張れ、とか。
愛してる、なんて当然。
想いを伝えたいお前と。想いを受け取りたい俺と。
想いを伝えたい俺と、想いを受け取りたいお前と。
繰り返し行われる神聖な儀式。
日が沈む時に、オヤスミのキス。
今日も一日ありがとう。
明日もまた、よろしく。
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4.
つつ。
人差し指を立てて、相手の耳をなぞってみる。
ぞわっ。
余程気持ち悪かったんだろう、目を見開いて肩を竦めたヤツの腕には鳥肌が立っていて。
抗議の視線を向けられても、俺はいつだって笑いを抑えることが出来ない。
だってよ?
俺が触った耳と同じ側の腕だけ、鳥肌が立つんだぜ?
つつつ。
ぞわわっ。
ほらな。反対を触れば腕の鳥肌も反対に移ってやんの。
おっもしれぇ。
「・・・っ!!いい加減遊ぶのはヤメロ!」
「やなこった」
即答したらヤツは両手で耳を覆ってしまった。
多分俺は詰まらなさそうな顔になったんだろう。見返すヤツの顔はやたらと得意そうだ。
まぁいいさ。今は引いてやる。
どうせ四六時中耳を覆っておく事は不可能なんだ。
機会はいくらでもあるさ。
なぁ?
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5.
お前のその目が。
俺以外を映していると、世界が終わってしまったかのような錯覚を覚える。
青い筈の空は、何故か灰色で。
砕け踊る波は、何故か崩れ行く砂城の様に見えて。
囀る鳥の声は、何故か断末魔の悲鳴に聞こえて。
輝く太陽が、黒い炎を纏って落ちてくる。
歩み続けると誓った筈の足は、地に縫い付けられ。
夢を追って燃えていた筈の心は、冷たく凍えて。
お前に伸ばす筈の腕は、形を失って。
黒い炎に焼かれた咽喉は、名を呼ぶ事も出来ない。
『 』
それでも。
それでも、それでも。
『 』
焦がれるこの気持ちは。
この気持ちだけは、失ったりしないように。
『 』
例え届かなくても。音にならなくても。
何度も。何度でも。
「・・・・ん?どうした?」
ああ。
お前が俺を見ただけで。
お前が俺に問い掛けただけで。
「・・・・・いや。何でもない」
世界は暖かな光を取り戻し。
再び、廻り始める。
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6.
自由でありたいと。
言った俺にあいつは酷く呆れた様な、拗ねた様な、そんな視線を寄越してきた。
「じゃあ俺達の関係もそこで終いだな」
意味が分からない。
俺が自由である事と、俺達の関係と。何の因果があるというのか。
「お前は自由でいたいんだろう?」
ああ。そうだな。
「自由になったお前は何者にも縛られない。縛る事が出来ない」
そのための自由だろ?
「自由になったお前は何者も縛る事が無い。縛る事を許されない」
・・・・・・・・。
「自由ってのはそういうものだろう?縛られない代わりに縛る事も許されない」
それは・・・・。
「自由と恋愛は両立しない。相手が好きなら気持ちを返して欲しいし、気持ちを伝えたい。そう願う事すら束縛なんだよ」
そう、だな。そうかも知れねぇ。
「だから」
だから。
結局、人間ちょっと位不自由な方が良いって事さ。
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7.
神様。堕落してしまいそうです。
ふと、ものすごく珍しいものを見てしまった気がして立ち止まる。
視界に映るのは、壁に背を預けて腕を組んだまま転寝しているあいつ。
別に寝ているのが珍しいとか言うわけではなくて、単に俺の前ではあまり寝ない奴だったから、寝ている所を見る事自体が珍しい。そういう意味だ。
せっかくの機会だし、と気配を殺して傍に寄る。物音を立てないように、俺の影が相手にかからないように。
寝息が聞こえる所まで近寄るだけで重労働だ。俺の背中は緊張のせいか、変な汗でべたべたになってしまって気持ち悪い。
けれどその甲斐あってまんまと正面に陣取ることが出来た俺は、にんまりと笑みを浮かべた。
寄ると触ると喧嘩ばかりで眉間に寄った皺しか印象に残ってなかったが、それが無いと意外に幼い顔つきに見える。もっとシャープな輪郭だと思っていたのに、割と丸っこい。触ったら柔らかいかもしれない。
体格も、もっと大きいと思っていた。もしかして丸ごと俺の腕の中に納まってしまうんじゃないだろうか。いや、そんな訳無いだろう。
腕。やっぱりちゃんと筋肉が付いている。当たり前か。
不躾に観察しながら、なんとも言えない気持ちが胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
規則的に上下する胸の前で組まれた腕。
何でその間に居るのが俺じゃなくて、皺の寄ったシャツなんだろう?
薄く開かれた唇。
何でそれに触れているのが俺の唇じゃなくて、潮を含んで駆け抜けていく風なんだろう?
そっと手の平を甲板に押し付けて上体を倒す。ぎりぎりまで寄せた顔に影がさし、少しだけ後悔したが、奴が起きる事は無かった。
俺のこの行動はきっと間違っている。はっきりと分かっているのに、止める事が出来ない。
ああ、神様。堕落してしまいそうです。
神なんて信じてないくせに、胸中でそんな言葉を呟いてみる。責任を全部、信じてもいない神に押し付けて、何をしようとしているんだ。
目の前の熱に今にも触れそうになって、漸く俺は我にかえった。
軽く苦笑して、再び相手を起こさない様に身を引く。否、引こうとしたが何かに引っ張られて動く事が出来なかった。
数回瞬きして視線を下ろすと、俺のシャツを掴んでいるのはさっきまで組まれていた筈の腕から伸びた指。そして耳に忍び込んでくるのは、さっきまで寝ていた筈の男の忍び笑い。
「・・・・・なんだ。なんにもしねぇんだ」
悪戯っぽく囁かれた言葉と、誘うように広げられた腕に。
最早俺が逆らえるはずも無かった。
ああ、神様。堕落してしまいました。
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8.
「何もかもぶち壊す気か」
冷たく響いた声に、我に返った。
俺は何をしようとしていたんだろう。軽く頭を振った俺は、掌に感じる熱に恐る恐る目を向ける。
そして其処に映ったものは。
少し節立った自分の指が重なるように輪を作り、相手の咽喉を押さえ付けていると言う光景だった。
ぐらりと世界が傾ぐ。
指の力が僅かに緩んだ隙を逃さずに、相手は圧し掛かっていた俺を突き飛ばし立ち上がる。
けほ、とむせ込む奴の咽喉に浮かび上がる紅い、跡。微かに上下する、肩。響いた声と同じに冷たく光る、瞳。
何をしようとした。何をしたんだ。俺は。
「あ・・・・」
声を漏らして後図去った俺に、奴は冷たい瞳のまま皮肉気に笑った。
「そんなに、俺が邪魔か」
「ちが・・・!」
必死で首を振る。それでも目の前の瞳の色が変わる事はなかった。
邪魔なんじゃない。ただ。
ただ、俺は。
静か過ぎる夜の足音に逆に目が冴えて、眠れなかっただけだ。
静か過ぎる夜の正体が知りたくて、甲板に出て来ただけだ。
そうしたら、静か過ぎる夜に抱かれたお前が佇んでいて。
その後姿が綺麗だと思って。
だから手に入れたいと思って。
そう、思って。
「俺、は」
震える唇で言葉を紡ぐ助けになろうかと、同じ様に震える指先を口元に運ぼうとした瞬間。骨が軋むほどの力で腕を引かれて2、3歩よろける。見開かれたままの俺の視界一杯に、何故か苦しそうな奴の顔が映し出されて。
与えられたのは、噛み付く様な口付け。
「・・・・・二度と俺に近付くな」
押し殺した声は俺には理解出来ない色を滲ませていた。
そのまま動けない俺の腕をするりと離して歩み去って行くその後姿は、やはり綺麗だとしか思わなかった。
「俺、は」
俺は。その後なんと言おうとしたのだろう。あいつの声に滲んだ色はどんな意味を持っていたのだろう。分からない。分かるのは、俺がどうしようもなく馬鹿な奴だったという事だけ。
そしてそんな俺が今出来る事は、胸に広がる苦い気持ちを抱えてただ立ち竦む事だけだった。
見上げた赤い月が、愚かしい俺を嘲笑っていた。
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9.
欲しいものが全て手に入るなんて、信じない。
あまり欲は無いほうだと思っていた。
それが意外に欲深で、譲れないものがこんなにもあると知ってしまったのはいつだっただろう。
俺の手は2本しかなくて、意外に小さい。
そんな事に気付いたのはいつからだっただろう。
そうだ。俺は自分が思うよりも欲が深くて、譲れないものや失いたくないものが沢山在る。
そして俺の手は、自分が思うよりも小さくて頼りなかった。
「・・・・・もっと多くのものを持てると思ってたんだけどな」
「何だって?」
自分の手をしげしげと眺めて呟いた言葉を耳聡く聞きつけた奴が、首を傾げて問いかけてきた。いいや、と首を振って再び自分の手を眺める。
裏表と手の平を返したり、目の前にかざしてみたり。どれだけ見ても当然ながら大きさは変わらない。
知らず漏れる溜息。
「もう少し大きけりゃ良かったのに」
「だから、何が」
俺とは違った意味の溜息をつきながら近寄ってきた奴は、両手を掲げている俺を見て何とも珍妙な顔をした。
「・・・・何やってんだ」
「別に」
短く返してぱたりと腕を下ろした俺に、眉を寄せて頭を掻く。そのまま隣に立って空を仰いだ奴は何も言わなかった。
間に流れた沈黙は決して気まずいものではなかったが、俺は何故か耐えられなかった。
「・・・・欲しいものが全部手に入るなんて、信じない」
俺の手はこんなにも小さくて、欲しいものはこんなにも多い。
忌々しい気持ちでぎゅっと拳を握る。爪が皮膚に食い込む感触がしても、力を抜く気にはならなかった。
もう少しで破れた皮膚から生暖かい液体が流れ出すだろう。そう思った時、「ふうん」と気の抜けた相槌と共に俺の両手は相手の手に包み込まれていた。
「別にそう思うのはお前の勝手だけどな」
さして興味もなさそうに呟きながら、ゆっくりと俺の指を開いていく。
そして開ききった俺の両手に自分の両手を添えた奴は、少しだけ目を細めて笑った。
「一人じゃ無理でも、二人分の手なら何とかなりそうな気がしねぇか?」
欲しいものも二人分だけどな。何とかなるだろ。
そう言ったあいつに、俺は黙って頷く事しか出来なかった。
何故だかほんの少しだけ、泣きたい気持ちになった。
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10.
俺達の間に約束は無い。
いつか。
その内。
そんな言葉ばかりで「約束」なんてしっかりとしたものは交わしたことが無い。
同じ様に。
俺達の間に言葉は無い。
好き。
愛してる。
そんな言葉は一度だって交わされた事が無い。
周りの奴らはそんな俺達を変だと言う。
けれど、俺達はそう思ってない。
約束を交わさなくても。
言葉を交わさなくても。
あいつが俺の傍に居て、俺があいつの傍に居て。
俺があいつを想っていて、あいつが俺を想っていて。
それは、至極当然のことで。
約束や言葉を交わす必要なんて、何処にもないのだから。
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