掌の温度だけで溶けてしまう雪の様に。
 言葉も気持ちも。
 
形が残らない、儚いものだと思ったりもする。



 雪の華



『俺、お前がわかんねぇよ』

 
あいつがそう言って俺に背を向けたのは、数日前のことだった。
 
いつもいつもウザイくらいに付き纏っていたヤツは、その日を境にぱたりと俺の傍には近寄らなくなった。会話も必要最低限だけ。視線が合うことなんて殆ど無い。
 
さっぱり。すっきり。一人の時間が取れるようになったという事実はそんな清々しい気持ちを運んできてくれるかと思った。
 
けれど、実際は。
 
どこか落ち着かない様な、つまらない様な、そんな良いとは言えない感情ばかりが押し寄せてきて。胸の奥に鉛でも詰込んだ様な重苦しさを感じるだけだ。

『お前がわかんねぇよ』

 
幾度も脳裏に蘇る言葉。何度考えてもその意味が分からない。
 
何が分からないというんだ。俺が何も答えないからと言って、俺が何も応じないからと言って、それに何の問題があるんだ。

『俺がお前の傍に居たいんだよ』

『俺がお前と話したいんだ』

 
だから全部許していたじゃないか。俺の傍に居る事も、俺に話しかける事も。
 
それで何が足りない。何が分からない。分からないのは俺の方だ。



「ふー・・・・」
 
一人の時間が増えた分、手持ち無沙汰な時間も増えた。昼寝をする気にもなれずにぼんやりと船内を歩き回る。目の前に続いていたはずの通路が突然途切れて、ふと周りを見渡すといつの間にか蜜柑畑のある甲板に辿り着いていた。
 
引き返すのも馬鹿らしくて、手摺りの傍まで足を運んで身体を預ける。
 
眼前に広がる海はいつもより少し波が高いようにも思える。空が纏っている雲は灰色で分厚く、いかにも重そうだ。吹き抜ける風の冷たさに、一度だけ身震いする。
「・・・ナミの奴が雪、降るっつってたかな・・・・」
 
言っていたような気もする。言っていなかったような気も。どっちでも良い。
 
ただ。
 
こんな日だったはずだ。あいつが俺にふざけた事をぬかしてきたのは。


『俺さ、お前の事が―――――』


 
悪い気はしなかった。だから「好きにしろ」と言ってやった。
 
それからあいつは色々と話し始めた。自分の事。俺の事。俺達の事。あの日だけじゃない。あれからずっと、あいつは色んな事を話していたはずだ。あいつの気持ち。あいつの夢。あいつの。飽きずに話し続けるあいつの言葉を、俺は黙って聞いていた。

 
ふいに鼻先を冷たい塊が掠めて、小さくくしゃみをする。
 
見上げた空は、とうとう重い衣を少しでも軽くしようと白い綿を振るい落としにかかっていた。
 
螺旋を描いて舞い落ちてくるそれを掌で受け止める。手の上の雪は、瞬く間に溶けて消えてしまった。次の雪も。その次も。ほんの一瞬も形を留めずに消えていく。

 
それはまるであいつと同じで。

 
色んな事を話していた。色んな気持ちを伝えてきた。その一つ一つを確かに覚えているのに。思い出せるのに、俺の中には何も残っていない。
 
言葉も、気持ちも。こんな僅かな熱で溶けてしまう雪と同じで、酷く儚いものだと思った。
 
儚くて、何も残さない。なのに何故あいつはそれを伝えようとするのか。何故あいつが伝えなくなって、俺がこんな重苦しさを感じなければならないのか。
「くそっ!」
 
突然湧き上がった忌々しい気持ちを抑えきれずに罪も無い手摺を蹴りつけた、その時だった。



「まぁ。怖い」

 
言葉通りの気持ちなど欠片も持ち合わせていない声に振り向く。そこには予想した通りの人物が立っていた。
「随分苛々している様だけど。何かあって?」
 
その人物――ロビン――はいつもと変わらない笑顔を浮かべてこちらを見ている。
「別に」
 
短く返した俺に表情を変えないまま軽く首を傾げて、近寄ってきた。
 
この女は少し苦手だ。こうやって何を考えているのか分からない笑顔のまま、そ知らぬ振りをして的確に嫌な所を衝いてくる。
「ふふ。・・・・ゾロは不器用ね」
 
まさに今の様に。
「誰かさんが傍に来てくれなくて寂しいの?」
 
眉間に力が入るのを感じる。

 
寂しい?誰が?あいつが隣に居ないから?

 
冗談じゃねぇ。そんなわけあるか。
 
傍に居たいと言ったのはあいつだ。俺じゃねぇ。あいつが居たいと言ったから、許していた。それだけだ。
 
投げつけた強い視線は、ロビンの笑顔にあっさりと受け流されてしまった。
「・・・・・・俺じゃない」
 
悔し紛れに吐き捨てた言葉も軽く流されると、そう思った。しかし意外にもその言葉はロビンの前に留まり、変わらないと思っていた笑顔を打ち消した。
「ねぇ、ゾロ」
 
曲線ではなく直線を描いた唇から囁く様な声が漏れる。


「手に入れたければ、まず与えなければ」


 
真っ直ぐに見つめてきた紫紺の瞳は、思い掛けない強さで俺を射抜いた。二の句が告げずにいると更に追い討ちをかけてくる。
「ただ駄々をこねて欲しいものを与えてもらえるのは、幼い子供だけよ」
 
暗にガキだと言われて内心ムカつくが、今の俺は完全に気圧されてしまっていた。口内でロビンの言葉を反芻する。

 
手に入れたければ、まず与える・・・・。与えるって何だ。許すだけじゃ駄目なのか。言葉を、気持ちを、受け入れるだけじゃ駄目なのか。

「・・・・・わかんねぇ・・・・・」
 
ぼそりと呟いた俺にロビンの表情が緩む。
「分かるわ。分かっているはずよ。あなたも」
 
目を細めたロビンの顔にはいつも通りの笑顔が浮んでいた。眉を寄せて唸る俺に小さく笑って踵を返す。
「おい・・・!」
「そろそろお邪魔になると思うし、私は退散するわ。ちゃんと向き合って、ちゃんと話して御覧なさい。彼と、ね」
 
軽く手を振ったロビンはそのまま振り返らずに立ち去ってしまった。船内への扉まで辿り着いた所で、ロビンが手を伸ばす前に内側から扉が開いた。
 
その人物と二言三言話した後、ロビンの姿は船内へと消え、代わりに現れた奴が真っ直ぐに俺の方へと向かってくる。
・・・・・よう」
「・・・・・・・」
 
少しだけ気まずそうに手を上げた奴を、俺は黙って迎えた。







「・・・・・俺が分からなくなったんじゃないのか」
 
最初に一言告げただけで、そのまま黙り込んで隣で煙草をふかしている奴に、痺れを切らして問いかける。
「うん。今でもわかんねぇ」
「・・・・・・・・」
 
呆れて物も言えない、とはこの事だ。俺の視線に気付いたのだろう奴は「うわ。すっげぇ冷たい眼」とわざとらしく嘆いてみせた。
 
小さく息を吐いた俺に苦笑して、短くなった煙草を踏み潰す。
「でもさ、足りなくなっちまったんだよな」
 
そのまま足元を見詰める奴の顔は、長めの前髪に隠されて表情が窺えなかった。
「?何が」
「お前が」
 
そうか、とだけ返すと「うん、そう」と奴が呟く。いつも通りのやりとり。この後、こいつは顔を上げていつもの様に笑うだろう。それでいいじゃないか。何も問題はない。

 
ない、はずだ。

 
そして、奴は顔を上げて笑う。いつもと変わらない笑顔で。
 
そして、行き去ったこいつの言葉も、気持ちも、俺の中には残らない。
 
そして、こいつはまた伝えなくなる、のか・・・・?


『手に入れたければ、まず与えなければ』


 
ふいに先のロビンの言葉が蘇る。
 
与える、という意味が分からない。いや、その前に。

 
俺は、何を手に入れたいと思ったんだ。

 
どれだけ告げられても。どれだけ寄せられても。俺の中に残らなかったこいつの言葉か。こいつの気持ちなのか。
 
傍に居る事を許した。受け入れもした。それでも残らなかった儚いものを、留めておきたいと思ったのか。

 
急に顔を顰めて首を傾げた俺を不思議に思ったんだろう、奴は少しだけ眉を下げて見つめてきた。
 
その情けない顔が、何故だか妙に安心する。この感情が、今一瞬のものだけで無ければ良いと、思う。
 
降り続く雪はやはりすぐに溶けて消えてしまっていたけれど。少しずつ温度を奪い、うっすらと形を留め始めていた。黒いスーツを纏った奴の肩に舞う雪の白さがやけに映えて見えた。

「・・・・なぁ、覚えてるか?」
「え?何を何を?」

 
俺から話を振った事に驚いたのかなんなのか、やたらと勢い込んで問い返す奴に軽く笑う。

「テメェが俺に初めて告げたのも、こんな日だった」
「あぁ・・・あん時はすっげぇ必死だったんだよなぁ」
「そうか?そういう風には見えなかったけどな」
「必死だったの!思い返してもクソ恥ずかしくなるくらいに!」

 
眉を吊り上げて怒鳴る奴の顔は確かに赤くなっている。ああ。こんな顔もしていたんだ。きっと今までも。初めて見たような気がするのは、俺のせいだ。
 
受け入れて許すことはしても、俺は何も返さなかった。だから何も残らなかったんだ。
 
こうしてこいつの言葉に俺の言葉を返していく。それだけで今のこいつの言葉や表情が、気持ちが俺の中に蓄積されていくのを感じる。

「・・・・ゾロ?なんか妙に機嫌良くない?」

 
恐る恐る、といった風に問いかけてくる奴にひらひらと手を振って背を丸める。
 
ああ。確かにいい気分だ。
 
込み上げてくる笑いを必死で噛み殺し、漸く波が収まったところで目の端に浮んだ涙を指先で払う。
 
おろおろと不安気な奴にまた笑いそうになりながら、俺は口を開いた。

「ああ・・・・俺も足りなかったみてぇだな」
「え?」
「お前が」

 
だから今、気分が良いんだよ。
 
そっと差し出した言葉を、奴は大事そうに受け取ってくれた。
 
そして俺に返してくれたのは、酷く優しくて暖かい笑み。

「・・・・・雪。綺麗だな」
「・・・・・ああ。そうだな」






 
掌で溶けてしまう雪だけれど。
 
こいつと見上げて綺麗だと言い合った記憶は残る。
 
それは確かな事実で、胸の奥が少しだけ暖かくなる。
 
きっと言葉だって気持ちだって同じだ。言うだけでは残らない。言われるだけでも残らない。伝え合って初めて、この胸を暖める。

「俺・・・」
「ん?」
「俺は・・・テメェのこと、割と気に入ってる・・・ぞ」

 
いかにもな告白は気恥ずかし過ぎて無理だ。だがこんな言葉でこいつに伝わるだろうか。
 
そんな不安をよそに、あいつは「何、そのやたらと控えめな告白」と笑っていた。その笑顔が何故か嬉しいと思う。

「俺もさ」
「?」
「俺も、あんたの事割と気に入ってるぜ?」

 
そのまま返された言葉に呆れて視線を向けると、にやりと人の悪い笑みを浮かべて俺の目の前に手を差し出してきた。
 
差し出された手を素直に握る。雪に冷えた身体に、繋いだ手だけがやたらと温かい。この手を離してしまえば、感じた温もりはすぐに消えてしまうだろうけれど。記憶となって、これからも俺の心を暖めてくれるだろう。

 
どうせならもう少し熱を分けてもらおう。

 
腕を強く引いて距離を縮める。
 
物を食べ、言葉を放つ以外にも役目を持つその部分を狙って。

 
ああ、そうだな。お前が応えてくれるなら、もう少しの間こうしてても良いぜ?
 それから、これからも俺から伝えてやっても良い。



 柄じゃねぇしやっぱり気恥ずかしいから偶に、だけどな。






おおおおどこの乙女だ。ゾロ。
拙宅的には珍しい配置です。ぐるぐるしてるのがサンジじゃなくて、ゾロ。
作中のある言葉に触発されてがーっと書いたんですが、サンジよりゾロのほうが相応しい気がして。
だってサンジは分かっている人だと思うんです。与えること、受け取ること。その点ゾロはそういった部分が鈍そうだなぁ・・・と。
しかしゾロをぐるぐるさせると何故か乙女になる罠。

では最後まで読んで下さって有難うございましたー!
(’09.1.8)

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