家を飛び出したゾロは、目指す場所もなくただ我武者羅に走っていた。
視界を流れていく景色に色は無く、何もかもがゾロの存在を否定し、拒絶し、冷たく見下ろしているように感じる。一瞬公園の風景が脳裏に浮んだが、今のゾロは其処に居るはずの人物にすら拒絶されるのではないかという恐怖で向かう事が出来なかった。
暖かな光をくれた、優しく微笑んでくれた彼にまで自分を否定されたら、剥き出しになったこの心は耐えることが出来ない。
いや、既に壊れてしまっているのかもしれない。
それでも、自分の頬が濡れていない事にほんの少しだけ安堵する。
兎に角、誰も居ないところへ。
何も無いところへ。
出来るだけ早く。
自分が誓いを破ってしまう前に。
半ば恐慌状態に陥ったゾロはひたすらに走り続けた。
とうとう心臓が悲鳴を上げて足を止めたゾロの視界に広がっていたのは、流れこそ急ではないものの大人でも足が付かないほどの深さがある川だった。
肩で息をしながら水面を見つめる。
緩やかに流れる川はもしかして心に巣食う闇を拭い去ってくれるかもしれない。弱い自分を洗い流して、リセットして。そうして誓いを守るのだ。
そんな錯覚に、ゾロはゆっくりと川べりに近付いた。
「ゾロ!!」
その時、名前を呼ぶ鋭い声にゾロははっと振り返る。
そこに居たのは髪を乱し息も荒く睨み付けているサンジだった。足元に絡みつく草を鬱陶しそうに跳ね除けながら大股でゾロの元へと歩み寄る。会いたかった、けれど一番会いたくなかった人物の登場に一歩退こうとしたゾロの腕が強い力で掴まれた。今まで見た事の無いサンジの厳しい眼差しに身を竦める。
駄目だ。今否定されたら自分は本当に壊れてしまう。
怯えて腕を振り払おうともがいたゾロは不意に身を包んだ温もりに動きを止めた。
「ゾロ・・・ゾロ・・・!良かった・・・。ごめん。遅くなってごめん。守れなくてごめん・・・!」
耳元で響く言葉は拒絶ではなかった。
けれど。
「サ・・・ジ・・。離して・・・離せ・・・!!」
安心するよりも恐怖が先にたつ。
だって。
だって、だって、だって。
父親も「そう」だった。
あの時。自分が意識を手放す直前。
彼は確かに自分を抱き締めて、名前を呼んで。「ごめん」と。
そう言った。
サンジの言葉は拒絶ではなかった。
けれど、ゾロにとって「ごめん」は別れの言葉だった。
「父さんもっ・・・!そう言って俺を置いていった!そう言って俺の事っ・・見てくれなかった・・・!!サ、サンジだって!サンジだって、そう言って俺の事、無かった事にするの・・・・?」
両腕の中にすっぽりと納まった小さな存在から悲痛な叫びが上がる。不安定な声音にサンジはぎょっとして覗き込んだが、ゾロの瞳は濡れてはいなかった。
きつく眉を寄せて、口元は小刻みに震えているのに、瞳だけが乾いている。サンジは腕の中の少年は自分が思っていたよりも深く傷付き、怯え、その心は既に限界なのだと漸く気付いた。
「無かった事になんてしない。するはずが無いだろう」
もがき続ける小さい身体を更に力を込めて抱き締める。
何度も繰り返し告げても、ゾロは首を振るばかりだった。
ゾロの父親は恐らく弱過ぎたのだ。そして、間違いなく妻と子供を愛していた。
だからこそ壊れた。愛した女性の死に耐えられずに。
だからこそ一人で逝った。愛しい子の未来を奪うことが出来ずに。
けれどそれを告げたところでどうなるだろう。
そんな言葉位では救われないほどに、ゾロの心は闇に覆われている。
深く息を吐いたサンジは、そっと腕を解くと腰を落として俯いたゾロの頬を両手で包みこんだ。
視線を合わせた先には、やはり乾いて光を失った瞳があった。
この瞳には何の慰めも届かないだろう。悟ったサンジが口にしたのは別の事。
「・・・・なあ、なんで、泣かないんだ・・・?」
突然の質問にゾロの肩が僅かに跳ねる。
静かな問いかけに一瞬心の中で荒れ狂う波が治まったが、ゾロは答えようとはしなかった。
それは自分の誓いだから。誰かに言う必要など無いから。自分だけが知っていて、破らなければ良いのだから。
ふい、と視線を外すと当てられた手がぺチンとごく軽く頬を叩く。
「どうせしょーもない誓いを立ててるんだろう?・・・・本当に、ガキの頃から変わらねぇのな」
意味不明の言葉と、頬に走った軽い衝撃に驚いて視線を戻す。
目の前のサンジは泣きそうな様な、困った様な、複雑な笑みを浮かべていた。
「サ・・・・」
「いいから泣いちまえよ。泣きたい時に意地張ったって何も良い事ないぜ?」
再びぽすんとゾロの身体を抱き締めて、優しく背中を撫でる。
その腕は温かくて。
繰り返し名前を呼ぶその声は何処までも優しくて。
見開いた瞳に張られた水の膜は次第に厚みを増して、あっという間に零れ落ちていった。
一度雫が頬を伝ってしまえば、後はもう止まる事無く次々と涙が溢れていく。
とうとうゾロは大声を上げて泣き出した。
「大丈夫。大丈夫だよ、ゾロ」
自分でも言い聞かせていた言葉。けれどサンジの口から零れるそれは、自分のとは比べ物にならない位の強さと安心を与えてくれた。
一人にしないで。
俺の事、無かった事にしないで。
涙と共に心の奥底に沈めて気付かない振りをしていた感情が形を成して溢れ出す。
泣きじゃくるゾロをしっかりと抱き締めて、サンジは言葉の一つ一つに力強く頷いた。
「一人じゃない。無かった事になんてしない」
大丈夫。大丈夫だから。
ゾロの負った傷を埋めるように何度も、何度も。抱き締めて背を撫でて、繰り返す。
「言っただろ?俺はお前に会いに来たんだ。そしてお前を待ってる。今はずっとそばには居られないけど、いつか。いつか必ずお前の傍に居ると誓うから」
濡れた頬をそっと拭い、覗き込む。
「だから、俺を信じて?」
にっこりと笑って見せたサンジに、ゾロは眩しそうに目を細めて。
そして涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、同じ様に笑みを浮かべた。
「ほら。これで少し冷やしときな」
漸く落ち着いたゾロの目に水に浸したハンカチを当ててやる。素直に受け取ったゾロが少し不機嫌そうなのは先ほどの自分の醜態を恥じているせいだろう。
――――本当に、変わらない。
ここで笑ってしまえば拗ねてしまう事は間違いない。
必死で笑みを堪えるも、その雰囲気は伝わってしまったらしい。ゾロがじっとりと睨み付けてくるのを軽く頭を撫でる事で誤魔化して、サンジは真っ直ぐに伸びる道の先を指し示した。
「もう直ぐ、女の子を連れた男の人がここに来るよ。君と暮らしたいといってくれる。彼らなら大丈夫だから。一緒にお行き」
サンジの言葉は時々突然過ぎて意味が分からない、と首を傾げたゾロにそれ以上詳しい事は伝えようとせずに、サンジはゾロの腕を取って道へと戻る。
彼の言葉通り、暫くしてゾロの名を呼ぶ男性と少女の声が聞こえてきた。
河原に立つゾロを見つけた二人は安堵の表情を浮かべて駆け寄ってくる。一瞬戸惑ったが、柔らかく背を押されてゾロも二人へと近付いていった。
迎えに来たのは、あの家で唯一ゾロのことを気に掛けてくれた少女と、穏やかな笑みを浮かべた男性だった。
「見つかってよかった。・・・ゾロ君。これから、わたしの家で暮らさないか?君さえ良ければ、だけれど」
「おいでよ!」
手を差し伸べた二人に頷いておずおずとその手を受けいれると、彼らは嬉しそうに笑ってくれた。
「それじゃ、行こうか」
「あ・・!待って!」
手を引いて歩き出した男性に声をかけて背後を振り返る。サンジに一言伝えなければ。
しかし振り向いた先に、あの太陽のような髪の持ち主は居なかった。
今まで傍にいた、あの優しい存在は幻だったのだろうか。
いいや。自分に与えてくれた光も、温もりも、真実だった。
サンジは言っていたではないか『いつか必ず傍にいると誓うから』と。
もう自分の誓いは「泣かない事」じゃない。
サンジの言葉こそが、これからの自分の誓いとなるのだ。
「どうしたんだい?」
「・・・・・ううん。何でもない」
問いかける男性に首を振ってゾロは歩き出した。
右手には男性の。左手には少女の温もりを感じながら。
ここからゾロの本当の人生が始まった。
窓から差し込む光に射られてボンヤリと瞳を開いたゾロの視界に見慣れた天井が映る。
「・・・・・夢・・・・・」
どうやら子供の頃の夢を見ていたらしい。再び瞳を閉じて微かに息を吐く。
あの時迎えに来てくれた二人は、今でもゾロにとって大切な家族だ。彼らはゾロを心から迎え入れてくれて、そして慈しんでくれた。
父親となった男性はあれからも変わりなく穏やかに、優しくゾロを見守ってくれている。少女も優しさと明るさは変わらないものの、すっかり男勝りに成長してゾロと剣道を習い始め父親の頭を悩ませている。
進学の為に家を出たが二人のゾロに向けられる愛情は、そしてゾロの二人に向けた想いは何も変わってはいなかった。
それが何となくくすぐったくて、いとおしい。
くすくすと一人笑った時、降り注いでいた光が遮られてゾロは瞳を開けた。
「なーに一人で笑ってんの」
目に映るのは太陽ではない、もっと温かく鮮やかな光。
家族ではない。けれど、もっと大切で愛しい存在。
「ん・・・。夢見てた」
「夢?」
一風変わった眉が訝しげに顰められる。腕を伸ばしてくしゃりと金色の髪を撫でると、ゾロはその人物を見上げてゆったりと笑みを浮かべた。
「ガキん時、お前にそっくりな奴に助けられた事があったんだ。そいつのお陰で、今の俺が居るといっても良い位だ」
癖の無い細い髪が指から流れ落ちる感触を楽しみながら言うゾロに、相手は悪戯っぽく口の端を吊り上げる。
「そうか。俺は逆のことがあったぞ?」
「逆?」
思いがけない言葉に身を起こし、凝視する。今度は相手がくつくつと肩を揺らす番だった。
ゾロの隣に腰を下ろし、煙草に火をつける。漂ってきた香りはもうとっくに嗅ぎ慣れた、そして同時に懐かしい気持ちにさせるものだ。
紫煙を深く吸い込んで、ぷかりと輪っかを作る。あの時と同じ香りの煙草で、同じ形の煙。思わず目で追ったゾロは、次の言葉に目を見張った。
「一人で全部抱え込んでじっと耐えてるガキを助けた事があるな。お前そっくりの」
「・・・・・あの時の奴は今のお前と同じ年だったぞ・・・?」
それがどうやって。
眉を寄せて首を傾げる、子供のときと変わらない仕草。愛おしさが胸に溢れてサンジは目の前の男を力いっぱい抱き締めた。
苦しいと暴れるゾロに構わずぎゅうぎゅうと思う存分抱き締めてから少しだけ力を抜いてやる。
「そりゃ、アイノキセキってやつでしょ」
ぽかんと見上げるゾロに触れるだけのキスを落として、サンジは極上の笑みを浮かべた。
END |