母親は自分を産む事と引き換えに命を失ったのだと、聞かされた。
穏やかに笑う、翡翠色の瞳をした綺麗な人で、器用で暖かな指先を持っていたそうだが、自分は知らない。覚えていない。
覚えているのは、父親の指先。少し冷たくてごつごつしていた。
そして父親の瞳。鳶色の深い色をしていた。
父親の笑顔は、覚えていない。自分に向けてくるのはいつも苦しい様な悲しい様な、そんな表情だったから。
「お前の事をもっと愛せればいいのに。お前は母さんの半分だから」
仲の良い夫婦だった。
最愛の妻を失った父親は、緩やかに壊れていったのだろう。毎日の様に囁かれる言葉は自分を愛する事は出来ないと、告げていた。
それでも、いつかは愛してもらえるかもしれない。母親のことを語る時の様な瞳で自分を見てくれるかもしれない。
ささやかな願いは、酷く愚かしいものだった。
自分が5歳の時。触れてくる父親の手が酷く熱かったことを、覚えている。
首に回された両手はゆっくりと力を増し、自分の瞳に映る世界は容易く色を失っていった。
「お前が、産まれなかったら。お前さえ、居なかったら・・・っ!!」
霞み、沈んでいく意識の向こうで。ひび割れた父親の声と涙に濡れた瞳だけが、はっきりと感じられた。
ああ。俺が居なくなればいいんだ。妙に納得して、そのまま意識を手放した。
目を覚ますと其処はまったく知らない場所で、白い天井に白いシーツ。薬品の匂いがかすかに漂う部屋だった。傍にはやたらと派手な格好をした女性が座っていた。
化粧臭い息で捲し立てたのは、父親は自分を殺しきれなかったという事。意識を失った自分を置いて外へ飛び出し、自殺してしまったという事。残された幼い自分を誰が引き取るのか、相談中であるという事。
可哀想に。怖かったでしょう。そういって頭を撫でてくれたが、その手にも見つめてくる瞳にも温かさなんてものは感じられなくて。自分は厄介者になってしまったんだなと、子供心に理解した。
どうして、殺してくれなかったのか。死んでしまうのなら、せめて自分も連れて行ってくれれば良かったのに。
それとも、そんなに自分が憎かったのか。殺す事も出来ないほど。
初めて涙が零れた。
大丈夫よ。もう怖くないからね。的外れな慰めの言葉をかけながら抱き締めてきた女性からは、やっぱり温かさなんか感じられなかった。
少しの薬品の匂いとむせかえる様な化粧品の匂いに包まれて、自分はただ泣く事しか出来なかった。
それは怖かったからでもなく、悲しかったからでもない。
もう誰からも愛される事は望めない。
愛されようと必死だった自分との、別れを告げる涙だった。
この身全てで貴方を包み込むように
「お前、母ちゃんをコロシて生まれてきたんだってなー!」
「父ちゃんはあいつをコロし損ねてジサツだって!」
「ヒトゴロシだー」
「サツジンシャだー!」
わーきゃーと騒ぎながら一人の少年の周りを跳ね回る子供達。背負ったランドセルも一緒に飛び跳ねてガチャガチャと耳障りな音を立てる。
自分たちが発している言葉の意味を、半分でも理解しているのだろうか。恐らく大人たちの噂話を聞き付けたのだろうが、それがどれだけ相手を苦しめる内容なのか知ろうともせず、子供特有の残酷さでからかう。
中心に立つ少年は口元をきつく引き結び、真っ直ぐに背筋を伸ばして黙って歩いていく。意志の強そうな翡翠色の瞳は前だけを見据えて動こうとはしなかった。
反応を示さない少年が面白くなかったのか、一人の子供が道端の小石を拾い上げて少年の背中に向かって投げつけた。こつんと背負ったランドセルに小石が当たった感触に少年が振り向く。その額に2投目の石が当たって「あっ」と手を当てる少年に周りの子供たちが歓声を上げる。
ゆっくりと外した手に僅かに血が付いているのを見た少年は、眦を決してランドセルを放り出すと子供たちの輪の中に飛び込んでいった。
また、やってしまった・・・・。
泥まみれのランドセルを引きずって小さな公園へと足を踏み入れた少年は、備え付けられた水道へと真っ直ぐ進み蛇口をひねる。流れ出る水を手で掬い顔を洗う。額や口の端など怪我をした部分にひんやりと染み込む感触が気持ち良かった。
しかし、少年の顔は晴れない。5年前に自分を引き取ってくれた親戚(それはあの日病院で彼を抱き締めた派手な女性ではない。結局彼女も子供を引き取る事は嫌がっていた)はお荷物を背負い込んだという態度を隠そうともしなかったし、服や持ち物を汚すとあからさまに嫌そうな顔をした。
「はあ・・・。気を付けようと思ってたのにな」
ランドセルと同じ、泥まみれの服を見下ろして10歳という年齢に似つかわしくない重いため息を吐く。
また嫌味を言われるだろうか。いっそここの水道で服を洗っていこうか。そして乾いてから戻ればいいかもしれない。
益体も無い事を考えて上着に手を掛けたその時、後方から含み笑いが聞こえてきた。
「ふ・・・くくっ・・・まさかここで服を洗うつもりか?ほんと、無茶な所は昔っから変わんねぇんだな」
いかにも楽しそうな声はどうやら自分に向けられているらしい。内心首を傾げた少年は身体ごとぐるりと後ろを振り返る。
遊具など殆ど無い小さな公園。視界に映るのは錆びた鉄棒と揺れる度にきぃきぃと鳴くブランコ。遊ぶ子供が居ないのか固まって地面と区別が付かなくなった砂場。そしてペンキの剥げかけたベンチ。
声の主はそのベンチに腰掛けていた。
「よう、少年。しけた面してんなぁ。喧嘩でもしたのか?」
青いシャツと黒いズボンを身につけたその人物は胸のポケットから煙草を取り出し、笑みを含んだ声で問いかけてくる。
近所では見かけない人物の登場に、少年は警戒しながらぎゅっと服の裾を握った。
「なんだなんだ。だんまりかよ。さては負けたな?」
「負けてない!」
思わず怒鳴ってしまってはっと口を押さえる。何処で誰が聞いているか分からない。喧嘩をしたなんて、家の者に知れたらまた嫌な顔をされる。
一瞬後悔したが、よく考えたら泣いて帰ったあの子供たちがどうせ親に言いつけるのだ。ばれるのなんて時間の問題だ。思考を巡らせた少年は先のことを考えるのは止めて、取り敢えずは今、自分のプライドを守ることにした。
呑気に煙草をふかしている人物に向かって口を開く。
「負けてない。勝ったよ」
「はっはぁ!そいつぁ僥倖」
薄い顎鬚の上にある唇が楽しそうに吊り上げられた。
それだけで何だか警戒しているのが馬鹿らしくなる様な穏やかな雰囲気になる。少しだけ得意そうに鼻を鳴らした少年は、手招きされて素直に傍に寄って行った。
近くで見るとその男は意外と長身だった。ベンチに座ったままで立っている少年と同じくらいの高さがある。長く伸ばされた金色の髪は左目を覆い隠してしまっている。見えている右目は深い蒼色をしていて、実際に見た事は無いが海の色みたいだと思った。それよりも目の上にある眉毛がくるりと渦を巻いているのが酷く不思議だった。
まじまじと見つめる少年に男は苦笑して、ぷかりと煙で輪っかを作る。わあ、と小さく歓声を上げた少年はたちまち風に散らされてしまった煙に、残念そうな表情を見せた。
「・・・てゆーか、おっさん、誰?」
「おっさ・・・!ぴちぴち24歳のナイスガ〜イvにおっさんはねぇだろう・・・」
完全に消えた輪っかから男に視線を戻した少年が問いかけると、男は大げさに肩を落とした。24歳。それなら自分より14歳も年上だ。そんなにショックだっただろうか。
首をかしげた少年だったが「どーせおっさんだよ・・・どーせ・・・」とベンチに指でのの字を書き始めた男の様子に、さすがに悪い気がして口の中で謝罪する。
「で、お・・・にーさん、誰?」
「ん?俺?サンジだよ」
「いや、名前を聞いてるわけじゃ・・・」
「ほい。名乗られたら名乗り返す!礼儀礼儀」
だから名前を聞きたかったわけではない。少年の抗議は「おにーさん」と呼び名を変えたおかげか、いきなり上機嫌になったサンジにあえなく却下されてしまった。
なんだか自分より子供みたいだ。大人気ない。
こっそりと息を吐いた少年は知らない人に名乗っても良いものかと思案したが、「名前名前」と催促してくるサンジにとうとう白旗を揚げた。
「・・・・ゾロ」
「よく出来ました」
満足そうに笑ったサンジは煙草を地面に擦り付けて消し、ベンチの隣にあった灰皿へと投げ捨てる。掛け声をかけて立ち上がってサンジと身長差が一気に開いて、ゾロは思いっきり上を見上げなければならなかった。
「うん。ゾロ。・・・・ゾロだな」
何度も名前を呼びながらぽんぽんとゾロの頭を撫でてくる。一瞬避けようとしたゾロだったが、撫でてくる手があまりにも温かかった事と。見下ろして微笑むサンジの瞳があまりにも優しい光を湛えていた事に、動く事が出来なかった。
「俺はね、ゾロ」
ゆっくりと大きな手が髪を撫でる。
降ってくる声はひどく柔らかい。
見上げた先で揺れる金色の髪が日の光を反射して輝いていた。
「お前に会いに来たんだ」
まるで太陽が2つあるみたいだ。
眩しさに耐え切れなくなって、ゾロは俯きそっと瞳を閉じた。
今まで一度も与えられた事など無い筈の温かさ。柔らかさ。穏やかさ。
なのに何故かそれを知っている気がする。
「・・・・ふうん」
今何か話したら自分は、もっと小さかった頃の誓いも忘れて泣いてしまうかもしれない。
それきりゾロは口を噤み、瞳の奥で尚もちらちらと揺れる光と髪を流れていく温かい指先を感じていた。
それを察したのか、サンジもただ黙ってゾロの髪を撫で続ける。
それが、二人の出会いだった。
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