春の草原のような外見の人は、夏の海のような性格の持ち主だった。
じりじりと照り付ける日差しは厳しくとも決して不快ではない熱を注ぎ、何処までも広がる碧色は大きな包容力を感じさせる。しかし一度侮って掛かれば、その穏やかで輝かしい水面は一変するのだ。
小船など一飲みにしてしまうほどの荒々しい波。そして煌く海面の裏に隠された危険極まりない世界。
その心に沿うならば、限りない慈愛と恵みをもって応えよう。けれどその心を侵すならば容赦はしない。ゾロと言う男はそんな人間だと、サンジは理解していた。
勿論、幼いサンジがそこまで深く理解していた訳ではない。ただゾロにはゾロの信念と言うか、心の中にはっきりとした柱があって、それを蔑ろにしようとする人間は許さないのだと朧気に感じ取っただけだ。
それが良い事なのか悪い事なのかは分からない。けれどそんなゾロの姿勢がサンジに強烈な印象を与えたことだけは間違いなかった。
一年前、サンジの教育係にはゾロの他にも数名の候補者が居た。その中に文武に優れ経験も豊富な人材もおり、実はゾロの父親も名を連ねていた。そんな中、即決即断の王にしては珍しく人事を決めかねていたのだが、偶々舞い込んだ息子の情報が、野太い笑声と決断を招いたのだった。
曰く「王太子殿下は一人の騎士の動向に非常に興味を示される。お気に召したと言うよりは、ライバル心を抱かれていると言ったご様子である」
騎士の名は聞かずともゼフには直ぐに得心がいった。彼の人物ならば問題ないだろう。ただ、一つだけ気になる事がある。それ故に、決断と共にゼフは一人の家臣を呼び出したのだった。
「宜しいのではないでしょうか」
深夜、人払いの済まされた国王の私室で、コウシロウはのんびりと首肯した。
自身の息子に重要な役目が下されることを誇らしく思うでもなく、かといって恐縮するわけでもなく、淡々としている。予想通りの反応に思わず吹き出したゼフだったが、直ぐに表情を引き締めて言葉を継いだ。
「チビナスがてめぇんとこのガキを気にしているらしい」
「初めてお会いした日の出来事が原因でしょうね。全く、青臭い説教をしてくれたものです」
はあ、と憂い顔で溜息をついてみせたコウシロウだが、悪いと思っている様子は微塵も窺えない。寧ろそれまで周囲に任せっきりで、幼い王太子の心根に疎かった国王を責める節さえある。それについては国王も全く同意であったから、苦笑することしきりだった。
「俺としてはやってのけてくれると思っている。チビナス自身、躍起になるだろうしな」
「ええ。あれは曲がった事が大嫌いですから、御心に沿えると思います。それに、あれ自身もまだまだ甘い。お互いに良い影響を受ける事が出来ましょう」
「てめぇ、息子の成長に王の子を利用するか」
「当然です。私は臣下である前に父親ですから」
子の成長を望まぬ親など何処におりましょう。
さらりと言い放った腹心に、とうとうゼフは腹を抱えて笑い出した。まったくどうしてこんな捻くれた親から、あのように真っ直ぐな子が生まれたものか。暫くの間肩を揺らしていた国王だが、笑いの発作が収まると、無骨な手でつるりと顔を撫でて深く息を吐いた。
「ゾロに頼むことはもう決めてある。ただな、奴はまだ若い。真面目で上の奴らの覚えもいいが、役目が役目なだけに相当なやっかみを受ける可能性もある」
それこそがゼフの唯一気になっていたことであった。この人事によって、ゾロの騎士としての躍進は一時差し止められることとなるだろう。けれど「王太子付」と言う肩書きは、それを補って余りある栄誉だと理解する人間の方が圧倒的に多いのだ。
例え彼個人の能力の高さを認めていようとも、人の感情はそう簡単なものではない。年若く経験も浅いゾロが取り立てられることに、少なからず反感を覚える人々が出てくるだろう事は想像に易しい。最悪、前途ある人材を失うやも知れぬ。
しかしそんな国王の懸念を、コウシロウはあっさりと受け流した。
「それで折れるようならば、息子はそこまでの人間だっただけのことです」
静かに、だが強く言い放ったコウシロウの表情からは、その言葉が本心であると窺い知れた。息子への信頼も確かにあるのだろう。しかし仮にゾロが折れたならば、宮仕えは無理だと判断して即刻全ての役目を剥奪する気でいるのも、また確かだった。
「俺が言うことじゃねぇが・・・あいつも色々大変だなぁ」
柔和な外見にそぐわないスパルタ方式な父親を持った青年に、ゼフはほんの少しだけ同情したのであった。
そんな親二人の会話も知らぬままに、この人事を聞かされたサンジは素直に喜んだ。
騎士と王太子という立場の二人は、普通の生活では接点が少ない。いつも遠目に見ていた相手が身近な存在になるのは、サンジにとって願ってもないことだった。ゾロに見縊られたくない一心で、詰まらない勉学も真面目に取り組んでいたのだ。その相手が自分の傍近くに来るとなれば、一層身が入るというもので、それは父王の思惑通りであったと言えよう。
ただ、当初は「教えられる」立場が少々不満でもあった。サンジとしてはゾロを見返したいのであって、習いたいのではなかったのだから。
けれどゾロと過ごす時間が積み重なるにつれて、サンジの心境に少しずつではあるが変化が現れる。他の教育者たちと違い、ゾロはサンジを王太子としてではなく、サンジ個人として見てくれている様に感じた結果だった。
だからサンジはゾロが訪れる時間になると姿をくらます。何処に隠れようとも必ず見つけてくれるゾロは、サンジの事を良く分ってくれている様で嬉しくなるのだ。いかにも子供っぽい理屈ではあるが、サンジにとってそれは儀式にも近い大切な行為だった。
そうして一年経った今、サンジにとってゾロは、見返したい相手から認められたい相手へと変化している。
元々街に出るのは好きで、教えられること全てが楽しかったせいもある。初めて見た災害地の衝撃が大きかったせいもある。しかしサンジの根本を占めるのはそう言った感情で、だからこそゾロの言葉は何一つ聞き逃さないよう真剣に耳を傾けたし、自身もそれに沿う行動が出来るよう努力した。
それが今回の様な騒動を起こす原因となるとは、思いもしなかった。
切欠は新しいレシピを教わりに行った店の主の言葉だった。
「この所材料の原価が上がってねぇ・・・店の売上も芳しくないし、このままだと一家全員干乾びちまうよ」
店主としては、既に顔見知りになった少年に料理を教える合間の、他愛ない世間話のつもりであっただろう。よほどの好景気でもない限り、商人同士が謙遜しあって交わす会話とそう大差はない。偽りではないが、言うほど困窮しているわけでもない、そんな所だ。
しかしサンジはぴたりと手を止めて、傍らの店主を見上げた。
「そんなに困ってるのか?」
「そうさなぁ。冬になれば作物の値は更に上がるし、今の内に何とか貯め込んでおきたい所さね」
けど今は食うのに精一杯だねぇ。ああ、そこでもう一度粉を篩うんだ。
店主の指示に再び手を動かし始めたサンジだったが、どうにも作業に集中出来ない。
「税金が減ったら助かるか?」
「税?ああ、そりゃ少ない方が良いに決まってらぁね。その分懐に残るんだからさ。ほらほら、もっと手早く混ぜないとダマになっちまう」
言いながら添えられた大きな手に合わせてざくざくと材料を混ぜながら、サンジはちらりと視線を流した。店の奥ではゾロが欠伸を噛み殺しながら作業が終わるのを待っている。
ふうん、と小さく呟いたサンジは視線を手元に戻し、今度こそ菓子作りに集中したのだった。
王は、王家の人間は、民を守らなければならない。
民の生活を守らなければならない。
民の笑顔を守らなければならない。
繰り返し自分に言い聞かせた言葉は、ゾロに教えられたものだ。決して忘れてはならない言葉。違えてはならない約束。
それはサンジがゾロに認めてもらいたいが故。
王宮に戻ったサンジは暫く考え込んだ後、一人の役人を呼び寄せた。
「サンジ、あれは一体どういうつもりだ」
手を抜くつもりはないが決して楽しいとも思えない授業を終えて、自室で一息ついていたサンジの元へ、低い唸り声と共にゾロが姿を現した。
あれ、が指す意味が分からずにことりと首を傾げる。開かれた扉の向こうで、ブルックがおろおろと室内を窺っているのが見えた。
「あれって?」
「・・・昨日、一人の人物の減税を命じただろう」
「ああ!あれか!うん、頼んだぞ?」
漸く得心がいったサンジが大きく頷く。
昨日、王宮に戻ったサンジは財政、特に税関系を取り扱う役人を呼び寄せて、とある人物の減税を命じた。対象は勿論、あの菓子屋の店主だ。
生活が苦しいと困っていた。税が軽くなれば助かるとも言っていた。そしてゾロとの約束もある。その約束に応えたのだと、サンジは晴れやかに笑った。
「ふざけるな!!」
次の瞬間、部屋に響き渡った怒声に、サンジはびくりと身体を強張らせた。見開かれた瞳の先で、ゾロが激しい怒りを顕にしている。
ゾロに怒られるのは初めてではない。甘やかすことをしないゾロは、サンジが間違えれば遠慮なく叱ってきた。けれどゾロはいつも何処かで手加減をしていて、ここまで激しい怒りを向けられたことは無かった。
叩き付ける様な怒りにさらされて、指先が震える。呼吸を忘れた肺は、酸素を体内に取り込むことを放棄してしまい、息苦しさに眉を顰めた。
「ロ、ロロノア殿、どうか落ち着いて・・・!」
じわりと歪んだ視界の中で、慌てたブルックが必死にゾロを押し止めていた。宥められたゾロが、一度サンジをきつく睨み付けてからはあ、と深く息を吐く。同時に押し潰される様な空気が和らいで、サンジは溢れ落ちそうになった涙を拭った。
怒られて泣くなどみっともない。しかも怒られる理由さえわからない。
ごしごしと顔を擦ってゾロを見上げる。寄越される視線は未だ厳しいものだったが、理不尽に怒鳴られたサンジもまた怒りを覚えていた。
どれだけの時間睨み合っていただろう。先に口火を切ったのはゾロの方であった。
「ああ、減税された店主は喜ぶだろうよ。確かに生活も楽になるだろう」
だがな、と重い声が響く。
「同じ状況で必死に収入を得て税を納める他の民はどうなる。まじめに働くだけ損だと思う者が必ず居る。店主を恨む人間だって、売上を誤魔化して納税を逃れようとする者だって出てくるだろう。・・・・お前の自己満足に民を巻き込むんじゃねぇ」
訥々と語られる言葉にサンジの顔が歪む。けれど、最後の台詞に弾かれた様に顔を上げた。
「自己満足って何だよ!!ゾロが言ってたんじゃないか。王家は民を守る者だって!困ってる奴は助けろって!」
そう。それこそがサンジを突き動かした原因なのだ。ゾロに認められたいが故、ゾロの期待に応えたいが故、考えて起こした行動であったのだ。しかしゾロはいっそ冷ややかに吐き捨てた。
「阿呆か」
容赦の無い一言に、サンジばかりでなくブルックまでが硬直する。「ロロノア殿、それは余りに・・・」と呟く従者に静かに首を振ったゾロが、サンジの前に膝をついて肩に手を置いた。
「いいか、サンジ。テメェが何の不自由もなく暮らしているのは何故だと思う。暖かな部屋で、着るものにも困らず、明日の糧に心を悩ますこともない。それは何故だと思う。確かに俺は言った。王族は民を守るためにあると。だが、民を守る、たったそれだけのことで、ここまでの贅沢が許されるのは何故だと思う
重ねて問われる内容に、サンジはふるふると首を振るばかりだった。大きな衝撃を受けた頭は本来の回転を失っている。考えたくとも考えられないのだ。
そんなサンジを咎めるでもなく、ゾロは言葉を継いだ。
「それはなサンジ。その「たったそれだけのこと」がそれだけ大切で、それだけ重い使命だからだ」
肩に置かれた手が、ずしりと重みを増したように感じられた。
「守るべきは民だ。それは誰か一人を指すんじゃねぇ。この国に暮らす民全てだ。公平さを欠いてはならない。かといって厳格すぎてもならない。それは酷く難しく、施政者の心を貪るんだ。だからこそ王家は今の生活を許される」
テメェにその覚悟はあるのか。
ゾロの腕の力は変わらないのに、両肩の重みはいよいよ増して感じられる。未だほんの少年であるサンジには、耐えられそうにない重さだった。
けれどゾロの瞳はそれに耐えろと訴えてくる。
耐えて、重圧を抱えたまま道を誤らずに歩めと。
酷く残酷な要求だった。
表情を失くしたサンジは身動きすら儘ならなかった。喘ぐ様に数回口を開閉させるも、音を伴わない。二人の様子を窺っていたブルックが、痛々しそうに顔を歪めていた。
動けないサンジを見詰めていたゾロが、ついと瞳を伏せて立ち上がる。
「・・・・・ブルック殿。申し訳ないが、殿下をお願い致します」
「は、はぁ。構いませんが、ロロノア殿は・・・?」
「長官の元へ行って来ます」
「・・・了解致しました」
二人の会話が何を意味しているのかは今のサンジには分からない。ただ、背筋を伸ばして立ち去るゾロの後姿に、言いようの無い焦燥を感じて呼び止めようとしたけれども、出てきたのは小さく掠れた声だけだった。
「あ・・・」
「殿下。ロロノア殿なら後程戻ってこられますよ」
伸ばした手をやんわりと押さえられる。縋る様な視線に、しかしブルックはにっこりと笑ってみせた。
「殿下が今するべき事は一つ。ロロノア殿の言われたことを、しっかりと考えられることです」
「で、でも」
「ヨホホ。大丈夫ですよ。ロロノア殿は殿下を見捨てるような真似などなさいませんとも」
内心を見透かされた言葉に赤面して、しぶしぶ頷く。
紅茶でもご用意致しましょうね、と踵を返したブルックの独特な軽い足音を聞きながら、サンジは漸く止まってしまっていた頭を回転させ始めたのだった。
「失礼致します。長官、お忙しい所申し訳ないのですが」
ゾロが訪れたのは王宮の一角、政を取り仕切る役目を担った政調庁と呼ばれる場所だった。
政に関して、最終的に決定を下すのは国王である。しかし勿論、国王一人で細部まで執り行うことが出来るわけではない。大元の方針が決定した後、それらを滞りなく進めることが出来るよう取り計らうのが彼等の役目であり、ゾロの父親はその長官であった。
息子の来訪に、コウシロウは視線だけでしばし待つよう告げる。ばたばたと行き来する役人達は、侵入してきた騎士の存在を気にした風もない。と言うよりそんな余裕がないのだろう。邪魔にならない様にと扉の端に身を寄せていたゾロは、忙しない光景をぼんやりと眺めていた。
数枚の書類にペンを走らせ、一人の役人に何事か命じたコウシロウが、漸く息子を手招く。ゾロが人払いも兼ねて通されたのは長官室だった。
「大体の話は聞いているよ。ああ、大丈夫。いくら殿下直々のご命令と言っても、簡単にお受けすることは出来ない。かの件については立ち消えて、特に問題はなかったから」
話を受けた役人は驚いたようだけれどね、と苦笑するコウシロウに軽く頭を下げる。
「申し訳ありません。俺の不注意でした」
「うん。お前の不注意だね」
事も無げに言い放った父親は、唇を噛み締めて俯く息子に椅子を勧めて、自らも腰を下ろした。
「詳しく聞かせてくれるかい」
穏やかな声音の中に言い様の無い凄みを込めた要求に、ゾロはぽつぽつと詳細を語り始めた。
「・・・・成る程。良く分かった」
語り終えると同時に、コウシロウは大きく息を吐いて上体を背凭れへと預けた。握り締めた拳を膝に置き背を伸ばしたままの息子の様子に、のんびりと顎を撫でる。
「つまりお前は、殿下に人の心を捨てろと、そう進言したのだね」
殊更ゆっくりと告げると、ゾロの目が大きく見開かれた。予想外の事を言われたと思っているのだろう。反射的に開かれた口は反論しようとしたのだろうが、コウシロウは片手でそれを制した。
ゾロがそんなつもりではなかった事は分かっている。立場に応じた義務を果たせと伝えたかっただけだと言うことも。ゾロにそう教えてきたのは他ならぬコウシロウ自身で、実際ゾロがその教えに違わず勤めてきた事も知っている。だからこそゾロは、王太子にそう進言したのだろう。
ただ、国王や王太子に課せられたものは、臣下である彼らには計り知れないほどの重さを持っている。その事を推し量れずにいたのは、間違いなくゾロの失態であった。
「ゾロ。人は自分の手の上に乗せられる分しか、守ることは出来ないのだよ。けれど陛下や殿下は、両の手に乗る以上のものを任せられておられるのだ。それがたった一人で耐えられようか」
耐えられる筈が無い。だからこそ周囲の者が手となり足となり、共に支えていくのだ。
ゾロの言い分は決して間違いではない。些細な情に惑わされて決断を誤ることは許されない。
「だが、情の無い王に民がついて行けるものか。判断を間違ってはならぬ。同時に情を失ってもならぬ」
判断の為に情を捨てることはならない。しかし情が絡めば判断は誤る。それは至極当然の結果で、誤らない人間などいないのだ。
「進言するのならば、臣下を頼れと言わなければならなかった。お一人で判断なさるのは危険だと、然るべき相手にまず御相談なさるべきであったと、お教えしなければならなかったのだよ」
「・・・・・申し訳、ありません・・・・」
俯き、閉ざした目蓋の裏に、サンジの顔が浮かび上がる。酷く傷付いた表情だった。信じてきたものが全て覆された。そんな、表情。
今更に自分の言動に深い後悔を覚える。
知っていた筈だった。至らない部分は確かに多い。けれど、それを補う為に必死に努力していたのを。表現こそ間違ったものの、嘘偽りなく人民を愛し慈しんでいた心を。それは間違いなくサンジの美点であった。
一年間傍に居て知っていた筈なのに、それを自分は壊してしまおうとしたのだ。
「やれやれ・・・」
深い後悔と自責の海に沈んだ息子の様子に、コウシロウは肩を竦めた。
やはりまだまだ甘い。真面目なだけに一本気なその性格は、簡単には自らの失態を許すことは出来ないだろう。
甘いかもしれないがここは父親が手を貸すしかなさそうだと判断して、ゆっくりと立ち上がる。俯いたままのゾロの正面に立つと、コウシロウはぶらぶらと両手を振りながら、にっこりと微笑んだ。
「ゾロ」
「・・・・はい」
「舌を噛まない様、気を付けなさい」
「は・・・!?」
言うと同時に、ゾロを力一杯殴り付ける。
体重を乗せた重い拳に不意打ちも加わって、吹き飛んだゾロの身体は受身も取れないままに、近くの棚へ激突した。衝撃で崩れ、ばさばさと降り注ぐ書類の束に埋もれながら、ゾロが呆然と父親を見上げる。些か間の抜けた表情に、笑い出したいのを必死で堪え、コウシロウはぴしりと扉を指差した。
「間違えたのなら正してきなさい。後悔していつまでもウジウジと立ち止まっている事の方が、余程愚かだよ」
「!!・・・・・はい!」
途端に生気の戻った顔で、ゾロが勢い良く立ち上がる。広がった書類を踏まないよう、けれど精一杯急いで部屋を飛び出して行ったが、直ぐに戻ってきて入り口で敬礼してきた。
「有難う御座いました!後、散らかしてしまいましたが、お手伝い出来ず申し訳ありません!失礼します!」
言うが早いか再び飛び出して行ったゾロは、その後も数人とぶつかって行ったらしい。役人の叫び声と紙が落ちる音、ゾロが慌てて謝りつつも駆け抜けていく足音を聞きながら、コウシロウはとうとう声を上げて笑い出したのだった。
逸る気持ちが身体の調子を狂わせたのか、大した距離も無い王太子の居室に辿り着いた時、ゾロはうっすらと汗を掻き肩で息をしていた。ゆっくりと息を整えたゾロが、いざノックしようとするより一瞬早く、内側から扉が開かれる。
「ヨホホ。お帰りなさいませ」
顔を覗かせたのはブルックで、ゾロが再び訪れるのを分かっていたかのように笑ってみせる。軽く頭を下げて部屋の主の所在を尋ねると、年配の従者はニコニコと微笑んだまま、ゾロに場所を譲った。
「殿下ならまだ中にいらっしゃいますよ。私は外用で暫く席を外さねばなりませんので、申し訳ありませんがここは宜しくお願い致します」
それはブルックの気遣いであったのだろう。再度頭を下げると、私こそ申し訳ない、と首を振って独特の笑い声を上げながら去って行く。その背を見送りながら、ゾロは小さく感謝の言葉を呟き、目の前の扉を開いた。
「サンジ?入るぞ」
室内に足を踏み入れたゾロの視線の先には、用意された紅茶に手をつけないままボンヤリと宙を見上げているサンジの姿があった。翳った顔にはいつもの快活さが感じられず、自分の言葉がどれだけサンジに衝撃を与えてしまったのかを思い知らされた。
もう遅いのだろうか。自分はこの少年の美点を摘み取ってしまったのだろうか。
ずきずきと痛む胸を抱えて、サンジに静かに歩み寄る。なんと声を掛けたものか、躊躇し逡巡しながら、ゾロはまずは謝るべきだろうと口を開いた。
「サンジ、さっきは」
「ゾロ・・・ごめん」
口にしようとした言葉を先に発せられて、ゾロの動きが止まる。固まったゾロを緩慢な動作で見上げたサンジは、複雑そうな表情で眉を寄せた。
「おれ、俺、考えてたんだ。ゾロに言われたこと。ゾロの言う通り、俺が悪かったんだって思った。えこひいきは駄目だよな、やっぱり」
言いながら口を歪めたサンジは、笑おうとしたのかもしれない。けれどそれは明らかに失敗していて、痛々しかった。サンジもそれに気付いたのだろう。出来損なった笑顔を消し、困った様に俯いて手を握り締めた。
「でも・・・・でも、ごめん。ごめん、ゾロ・・・・」
小刻みに揺れる細い肩に少年の葛藤がありありと感じられたが、ゾロにはサンジの謝る意味が分からない。謝らなければならないのは自分の方なのに、と些か困惑したものの、今はサンジの言葉を聞くべきだと判断して、俯くサンジの傍らに膝をついた。
「サンジ。もう謝らなくていい。ゆっくりでいいから、お前の気持ちを聞かせてくれ」
少年の顔を覗き込みながら、出来るだけ柔らかい声で語りかける。ぎゅっと拳を握り締めたサンジは、蒼い瞳に透明な幕を張ってぽつぽつと語りだした。
「ゾロの言ったこと、正しいと思う。そうしなきゃいけないんだってことも分かった。でも、やっぱり俺、無視は出来ない。困ってるんだったら、何とかしてやりたいと思うんだ。だから、ゾロの言う通りには出来ないかもしれない」
ごめん、と繰り返すサンジに、ゾロは今の状況を忘れて仄かに微笑んだ。
サンジの美点は失われていなかった。自分の激しい言葉を受けても、情を忘れずにいられる心根が嬉しかった。
温かい思いが胸に溢れる。しかし同時に、自分の無慈悲な言葉に揺れ動くサンジの様子に、改めて後悔の念が押し寄せた。
「俺こそ、悪かったな」
「え・・・?」
驚いた様に顔を上げる少年に自嘲的な笑みを向けて、細い金糸に覆われた頭をぐしゃぐしゃと撫でる。力が入り過ぎてぐらぐらと首まで揺らされた少年が、抗議の声を上げる頃には、瞳に張られた水の膜は既に消え失せていた。その事に満足して、漸く手を離す。
「初めて会った時も言っただろう?俺の思う通りにならなくて良いってな。お前のその気持ちは間違ってねぇ。それで良いんだ」
言いながら、口を尖らせながら絡まった髪を直すサンジの頭を軽く叩く。一瞬目を見開いたサンジが、次いで大きく頷いたのを確認してから、ゾロは表情を引き締めた。
「お前のやり方はお前自身が決める事だ。ただ、今回はちっとばかり方法を間違えた。次からは自分が出した答えは、まず誰かに相談しろ。それで問題が無ければ、お前の希望は通るだろう」
だが、と声をおとしたゾロに釣られて、サンジの表情も真剣なものへと変化する。
「俺の言ったことも忘れるな。お前が重い役目を負わなければならないことだけは、変わらねぇんだ」
「・・・・・うん」
少年なりに重々しく頷く様子に、ゾロはとうとう我慢できず吹き出した。
この顔は絶対に不安に思っている。本当に自分にやっていけるのか心配で堪らないのに、妙なプライドを発揮して口に出せずにいるのだろう。
くつくつと声を殺して笑うゾロに、サンジの不満気な視線が突き刺さる。
「わ、悪い・・・っイテ・・・」
無理矢理笑みを噛み殺そうとして、引き攣った頬がじくりと痛んだ。そう言えば父親に思いっきり殴られたのだったと思い出す。舌を噛みはしなかったが、口の中は切れていたのかと当の本人は呑気に考えていたのだが、目の前の少年は大いに慌てた様子であった。
「ゾ、ゾロ!?怪我してんじゃねぇか!うわ、えと、大丈夫か!?てか、何で!?」
「あー問題ねぇ問題ねぇ。親父にちと気合入れられただけだ」
「だから何で!・・・・あ、俺のせい、なのか・・・?」
途端に消沈した少年に、ゾロは苦笑を禁じえなかった。脆いのかと思えば意外に頑固で、慌てたかと思えば落ち込んで、ころころと表情の変わるサンジは見ていて飽きない。
「お前のせいじゃねぇよ。俺が甘かっただけの話だ」
「でも」
「謝るなよ?それでも気になるってんなら、行動で示せ。今日の痛みも全部かっ食らって、誰にも恥じない一人前の奴になってみせろ」
「・・・・・分かった。約束する」
頷くサンジは先程と同じ表情をしていた。それでも口にしない辺り、矢張り相当の頑固者だ、とゾロは目を細めて笑った。
恐らくサンジはこれからも似た様な騒動を巻き起こしてくれるだろう。そうして自分は似た様な説教をして、今日と同じ展開になる時もあるかもしれない。それでもサンジは、ゾロや周りの意見に迷い、戸惑いながらも少しずつ歩んでいくのだろう。
周囲に流され続けていた幼い子供はもういない。いるのは自らの理想を抱きながらも、道を違えまいと必死に努力する真っ直ぐな少年だ。
その傍らに在るのを許されていることが、酷く誇らしい。
『自らが見つけ出した相応しい人物にその身を捧げよ』
不意に国王の言葉が蘇る。
過ぎし日の予感が、確信へと変わる。
「大丈夫だ。お前の傍には俺がいる。必ずお前を支え、守ってやる」
「それはゾロの約束なのか?」
「ああ。約束だ」
くるりと首を傾げたサンジに力強く応える。じゃあ俺もゾロも一つずつ約束だな、と満面の笑みを浮かべた少年は、ゾロの目に酷く眩しく映った。
嗚呼。自分は気付いていなかっただけなのだ。
既に出会っていた、己の全てを捧げる真の主に。
「王太子殿下」
すっかり表情が明るくなったサンジが冷めた紅茶を口に運ぶのを見ながら、膝をついたまま一歩下がったゾロが恭しく頭を下げる。突然の畏まった態度にサンジの動きが止まるのを感じた。
「不肖の身では御座いますが、このロロノア・ゾロ、我が身と我が想いの全てを捧げ、殿下に常しえの忠誠を誓い奉ります」
「な、なんだよ。急に改まって」
我に返ったサンジが、わたわたと落ち着きの無い声を上げる。がたりと響いた音は、慌てたサンジが立ち上がったのだろう。
それでもゾロは深く頭を垂れたまま、サンジの言葉を待った。
「な、なぁ、ゾロ?」
「どうか、許す、と」
「ゾロ・・・・」
微かに溜息と共に軽い足音が近付いて、ゾロの視界に小さな靴が映り込む。同時に影が差し、細い手が差し出された。
「・・・・・許す」
「感謝致します。・・・我が君」
伸ばされた手を押し戴き、軽い口付けを落とす。顔を上げたゾロの前に、泣き笑いの様な表情のサンジが居た。
ゆっくりと立ち上がったサンジが一度目を閉じる。次に開かれた瞳は、凛とした光を宿して、ゾロを射抜いた。
「何時如何なる時も俺の傍に在り、俺と共に生きろ。これはお前の主の、命令だ」
「御意」
未完成で不安定な少年。
けれど、彼以上に心惹かれる存在はない。
胸の奥に宿った温かな光を大切に抱く様に、そっと瞳を閉じたゾロは、再び深々と頭と垂れた。
お子様’sが間違えたら正すのは親の役目。お父さん’s出張り過ぎです。ハハハ・・・。
取りあえず王太子編は今回で終了です。
やっと関係が定まった二人はこれから次世代として頑張っていきます。
・・・・・・行く予定です(待て)
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