どの位時間が経っただろうか。例えどんな時であろうと研ぎ澄まされた剣士としての感覚が、突然警鐘を鳴らす。その警告に従い、飛び起きざまに刀を一閃させる。
 軽い手応えと共に甲板に転がったのは木製の矢だった。鏃のみ金属で作られたそれは、ゾロの刀によって綺麗に両断されていた。
 人影は見当たらない。どうやら街道から外れた森の中から矢を射ってきたようだ。複数の気配を感じ取り、そちらに向かってすくと立つと、不敵な笑みを浮かべた唇を舌で湿らせた。

「出て来いよ。こんなモンじゃ俺は殺れねぇぜ?」

 和道一本を無造作に構えたゾロの周囲の空気が、その気迫でざわりと震える。
 隠れても無駄だと悟ったのか、木々の間からばらばらと十数人の男が姿を現した。
 中央に立つ左目に眼帯を嵌めた男以外は全員弓矢を構えていた。ただ野盗の様には見えない。全員が揃いの、軍隊を思わせる黒い制服を身に付けていた。

 恐らくリーダー格なのだろう、眼帯の男が口を開く。
「別に殺すつもりは無いさ。お館様が貴様を招待されたいそうだ。俺達はそのお迎えさ」
「へぇ。随分と荒っぽい正体だな。だが、見ての通り俺ァ今船番中だ。正体は辞退すると伝えといてくれよ」
 お館様とは酒屋の主人が言っていた領主のことだろうか。思い至り面倒な事になったと内心舌打ちする気持ちを隠して、不敵な笑みのまま答える。
 予想通りの返事だったのだろう。眼帯の男は動じる事もなく、右手を振り上げた。その動きに合わせて右側に立つ数人が弓を引き絞る。

「悪いが、貴様の都合は関係ないな」

 そう言うと同時に振り下ろされた右手を合図に、引き絞られた矢が一斉に放たれた。次いで今度は左側に立つ男達が弓を引き絞る。それを目の端で捕らえながら、ゾロは襲い来る矢を悉く斬り落とした。
 その伝わる感触に僅かな違和感を覚える。放たれた矢には小さな袋が取り付けられており、斬り落とされると同時に破裂して、周囲に粉塵を撒き散らした。

 とっさに口と鼻を覆い息を詰めた時には、遅かった。

 僅かに吸い込んだ粉は妙に甘ったるい香りがした。
 心臓が脈打つ度にじわじわと全身を侵食していく。頭の芯が痺れ視界が霞む。がくがくと震える四肢は、既にゾロの身体を支える事が困難になっていた。 


 ・・・・な、んだ、これは・・・・・っ!


 刀を甲板に突き立て、縋り付く様に身体を支える。
 膝を付き荒い呼吸を繰り返しながらも、ゾロは霞む目で男達を睨み付けた。血の気が引き白く染まった己の手を叱咤し、もう一振りの刀を腰から引き抜く。左手に掴んだ鬼徹をぐぐ、と右手と交差させるように構えた。

「・・・・・一世・・・三十六・・・煩悩・・・」

 不当に傷付けられた獣の目が、男達を射抜く。
 放たれた鬼気に弓を構えた者達がじり、を後退去る。
「あの粉を吸い込んで尚、此処までの気迫を・・・」
 内心舌を巻く思いで、眼帯の男は呟いた。
 なんとしても連れ帰らねばならない。船の上にいる海賊が手にしている得物は刀だ。普通に考えれば決して届く間合いではない。
 しかし突如襲ってきた圧迫感にとっさに周囲の男達に向かって散開を命じた、その瞬間。

「・・・・一刀流・・・・・三十六煩悩鳳!!!!」

 凄まじい衝撃が今まで立っていた場所を貫き、逃げ遅れた数人が巻き込まれ、吹き飛ばされる。
 鉄錆の臭いが周囲に漂う。
 頬に飛んだ仲間の血を拭いながら、眼帯の男はにやりと口を歪めた。
「流石・・・・。これならお館様も満足されるだろう」
 慄然とする仲間に檄を飛ばし、再び矢を構えさせる。
 和道で身体を支えたまま、ゾロは片手で飛来する矢を捌く。
 しかし、怪しげな香りに侵食された身体では限界があった。数本の矢がゾロの身体を掠る。僅かに血が滲む程度の傷とも呼べないものであったが、その傷口から再び力と思考を奪うものが流れ込んできた。
 愕然と目を見張ると、傍に転がった鏃には何か液体が塗りつけられているようだった。

 毒矢、と口にした言葉は、しかし音にはならず、ひゅうと空気が漏れただけだった。
 刀が手を離れ、澄んだ音を立てて甲板に転がる。ゆっくりと身を沈めるゾロの耳に、甲板に降り立つ硬い靴音が響いた。
「安心しろ。毒じゃない。ただの麻薬さ。普通なら粉を吸い込むだけでも動けなくなるはずなんだがな」
 近付いて来る音に顔を上げようと足掻く。だが震える身体は自分のものでは無くなった様に全く思い通りにはならなかった。
 思考が濁っていく。
 霞む視界に映ったのは、近付いてきた男の革靴だった。黒く光る革靴に、一人の面影が浮かぶ。
「鏃に塗ってあるのは、この粉を溶かしたものさ。まさか両方使う羽目になるとは思わなかったが」
 では、こちらの招待に応じていただこうか。

 男の言葉を聴きながら、今自分が思い浮かべた面影の名前を思い出そうとする。
 しかしそれは叶わないまま、ゾロの意識は深い闇の底へと沈んでいった。







 ゾロ。本当の剣士とは、何でも斬れる、誰にも負けないということだけじゃないんだよ。
 刀は確かに人を傷付ける物だけれども、守ることも出来る。
 自分の為だけではなく、誰かの為に刀を振るえる日が、君にも来ると良いのだけれど。



 早く強くなりたいと、目を輝かせて道場に通っていた幼いゾロに、師範が一度そう語ったことがあった。
 その時自分は強くなりたいのは自分の為で、誰かの為に刀を握るなど可笑しいと、そう答えたような気がする。
 その答えに、師範はいつも門下生に向けるような優しい笑顔を黙って浮かべただけだった。








 初めて人を斬ったのは何歳の時だっただろうか。
 刃が人の肉を切り裂く感触に、鼻腔に流れ込んでくる血臭に、激しい嘔吐感を覚え、胃の中のものを全て戻した。ぶち撒けられた吐瀉物の上に手を付き浅く呼吸を繰り返す。空になった胃は捻じられた様に痛み、尚も湧き上がってくる吐き気にきつく唇を噛み締めた。
 目の前にはほんの少し前まで動き、生きていた物体が転がっている。見開かれたままの瞳は玩具の硝子玉の様に虚ろに光り、ゾロを映していた。
 ずきずきとこめかみが痛む。強い嫌悪感の中、僅かながらも確かに。自分が勝ったのだという高揚感が存在していた。
 ゾロは皮肉気に笑おうとしたが、その口元は引き攣ったように歪んだだけだった。



 先生。やっぱりあなたの言葉の意味が分からない。
 生きる為に人を斬った。強くなる為に戦い、人を殺した。それはやはり自分の為で。誰かの為になどではない。

 誰かの為になど、考えられない。



 とうとう引き攣った口元から狂ったような笑いが零れる。
 いつか自分は人を斬る事に慣れてしまうだろう。血と吐瀉物に汚れた己の手を見つめ、ゾロは笑い続けた。
 ずきずきと、鼓動にあわせて響くこめかみの痛みは治まることは無かった。





麻薬なんてありがちなものを出してしまいました・・・(後悔)
次から薬や暴力等少し痛い表現も出てきます。嫌いな方はご注意です。
(’08.7.19)

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