夢の延長の様に痛むこめかみに、ゾロはゆっくりと瞳を持ち上げた。 目に映るその場所は、懐かしい師範の道場でも、初めて人を斬った森の中でも無く、見覚えの無い薄暗い部屋の中だった。 身体が重い。指先は冷たく、未だ微かに震えていた。頭の中を覆う靄を払うように軽く頭を振る。その動きに合わせて金属の擦れ合う音が響き、漸くゾロは己の体勢に気付いた。 両手には手枷がはめられ、其処から伸びた鎖は背後の壁へと繋がっている。さほど長さの無い鎖に自然と両手を持ち上げる形になる。足にも輪がはめられ、それは壁ではなく右と左を繋ぐように鎖が伸びていた。ご丁寧に足枷には錘まで付いている。ゾロの分身ともいえる三本の刀はやはり取り上げられたらしく、見当たらなかった。 つまり自分は張付けられた虜囚なのだと。霞掛かる頭でも理解するのはさほど難しい事ではなかった。理解すると同時に激しい怒りが湧き上がってくる。 全身は気怠く、未だ薬が残っている事を示している。しかしそれに構わず、壁と己を繋ぐ鎖を引き千切らんとばかりに腕に力を込める。がしゃんと耳障りな音を立て引き絞られた鎖は、びくともしない。尚も腕を引き寄せようとするゾロの手首に、手枷が食い込み、擦られ破れた皮膚から血が滲み出してきた。 「その鎖は壁の中に埋め込まれた鉄板に繋がっている。引き千切るのは中々に難しいと思うぞ」 突然部屋の中に声が響き、ゾロははっとして動きを止めた。 正面の扉が開き、灯りを持った男が立っている。その声と左目の眼帯から、自分を此処に連れてきた男だと思い出し、低く唸り鋭い眼光を投げ付ける。 その視線に物理的な力があれば、目の前の男は身体を射抜かれ、ずたずたに切り裂かれていただろう。しかし男は無傷のまま、左右に取り付けられたランプへ火を灯していった。 三つの光に浮かび上がった部屋は、酷く殺風景な場所だった。窓は無く、天井近くに通気孔が一つあるのみだ唯一家具らしいものといえば、扉近くに一つ置いてある革張りの椅子があるくらいだった。 最後に男は自分の持っていたランプを扉の隣にあるフックに取り付けると、ゾロに向き直った。 「お前の名は知っているよ。海賊狩りのロロノア・ゾロ。いや、今は海賊か」 「・・・・・・・俺は、テメェなんざ、知らねぇな」 乾き、ひり付く咽喉から何とか声を押し出し、鼻を鳴らす。 例え捕らえられ、張付けられていようとも、相手に弱みを見せるなど己の矜持が許さない。 そのゾロの態度に何を思ったのか、目を細めた男が言葉を発する前に別の人物が扉の前に現れた。それに気付いた眼帯の男はすばやく跪き、その人物を部屋の中へと迎え入れる。 現れたのは、一人の女性だった。 白く、肌理の細やかな肌。艶やかな漆黒の髪は肩から背中へと波打ち、肌の白さを際立たせている。黒曜石の瞳。すっきりと通った鼻梁。紅く染められた形の良い唇。身体の線を強調するぴったりとした真紅のドレスには深いスリットが入っており、其処からすらりと長い足が伸びている。 美しい、と表現するのに値する女性だった。 「はじめまして。わたくしはこの島の領主。ミレル・ミラルカと申します」 鈴の音のような声で名乗り微笑む。自分は美しいのだと十分に理解し、自信に満ちた笑顔だった。 並の男であれば瞬く間に蕩けきっていたであろうその微笑みは、しかしゾロには何の感銘も与えなかった。 「・・・・・・その、領主が、俺に何の用だ」 表情を消したゾロが低く尋ねると、ミラルカと名乗った女はうっとりと瞳を細めた。 「ああ。矢張り思った通り、強い人ですのね。ねぇ、貴方。わたくし、貴方のような方をお招きするのがとても好きなんですのよ」 紅い唇が緩やかに弧を描く。その笑みに少なからず嫌悪感を覚え、ゾロは唾を吐き捨てた。 「お招き、ね。薬を使って縛り付けるのがテメェの招待か。とんだ変態領主も居たもんだな」 その言葉に表情を険しくした眼帯の男が膝を上げる。男の名前であろう、ザンデ、とミラルカが囁き手で制すると、再び跪いて頭を垂れる。気分を害した様子もなく、ミラルカは一歩ゾロへと近寄り強い光を放つ翡翠色の瞳を覗き込んだ。 「あの粉を吸い込み、更に溶かしたものまでその身に受けて尚、その様な強い瞳を持っているなんて・・・素敵ですわ」 「・・・・・・付き合いきれねぇな。さっさとこれを外して刀を返せ」 言い放ったゾロの言葉に、ミラルカはまぁ酷い、と大袈裟に目を見張った。 絡み付くような視線に、芝居がかった仕草に吐き気すら感じる。 これ以上は話しても無駄だと、何とか鎖を引き千切ろうと腕に力を込める。 そんなゾロの様子に、ミラルカは一層恍惚とした表情を浮かべた。 「酷い人。貴方をお招きしたいと申したばかりですのに。貴方にはもう少し私の相手をして頂きますわ」 そう言うとミラルカはザンデへ軽く合図をする。立ち上がった男は懐から小さな袋を取り出すと、壁に取り付けられたランプへと歩み寄った。それぞれの火の中に、袋から取り出した粉を一掴みずつ放り込んでいく。 其処から流れてきたのは、メリー号の上でゾロの力と意識を奪ったあの甘ったるい香りだった。 張付けられた身体では逃れることも叶わず、その香りは再びゾロの身体を侵食していく。抗えない己に、ゾロはぎりと歯噛みした。 「この粉は島で取れる薬ですの。大丈夫。辛いのは初めだけですわ。その内至福の感覚が訪れます。・・・・・そう。この薬無しでは生きていけない程に」 思考が濁る。 身体の力が抜けていく。 浅くなる呼吸に肩が揺れる。 遠く、近く、女の声が響く。 「わたくし・・・・貴方の様な強い人を、強い瞳を壊すのが、好きなんですのよ・・・・・」 とても、とてもね。 霞む視界に、紅い半月が妙にはっきりと浮かび上がっていた。 「もう、ゾロの奴!一体何処に行っちゃったのよ!」 一通り用事を済ませたクルー達がメリー号に戻ってきた時、船の中はもぬけの殻だった。いつも通り昼寝をしているだろうと思ったゾロは居らず、戻ってくる様子もない。 「退屈で何処かに出掛けたのかな・・・」 「船番を放り出してか?そんな事する奴じゃないだろう」 首を傾げながら呟いたウソップの言葉にサンジが答える。もちろん本気でそう思った訳ではないウゾップも、そうだよなと素直に頷いた。 「船を留守にするなんて。お宝に何かあったらどうするのよ!」 地団太を踏む勢いで声を張り上げたナミの表情は、本当は宝などよりゾロの心配をしているのがありありと分かるものだった。 「ゾロなら大丈夫だ!」 信頼しきった顔で告げるルフィに、でも、とチョッパーが控えめに声をかける。 「何だか・・・嫌な感じがするんだ。胸がざわざわするような・・・」 その言葉に一同が口を噤む。 重い空気が周囲を包み込み不安という二文字を形作り始めたその時、なにやら甲板を調べていたロビンがねえ、と低く呼び掛けてきた。 手招きするロビンの傍へクルー達が近寄ると、ロビンはすいと細い指を伸ばして甲板の一角を指し示した。 「あれ。刀傷だと思うのだけど」 ロビンの示した場所には確かに刀を突き立てたような傷があった。その周囲には何か白い粉が付着している。 不安げに見つめる仲間達の視線を浴びながら、その粉を指で掬い匂いを嗅いだ考古学者は僅かに眉を寄せた。 船医さん、と呼びかけチョッパーの鼻先に粉を纏った指先を差し出す。 「私の記憶が正しければ・・・・余り良い状況ではないと思うの」 差し出された指に怪訝な表情を見せ、それでも素直に匂いを嗅いだチョッパーの顔色が変わる。 「おい、チョッパー。どうしたんだ。何だよ、それ」 只ならぬ二人の様子に、サンジが焦れた様に問い詰める。他のクルーも真剣な表情で二人を見比べた。 厳しい表情のまま一人一人の顔を見上げた船医は一瞬口篭り瞳を揺らせたが、そっと添えられた花の香りのする手の平に後押しされ、ゆっくりと口を開いた。 「これは、麻薬だ」 |
ゾロを捕らえた領主さんは何処までも変態のようです(色々台無しなコメント) |