「月下草と言うの。満月の夜に花を咲かせて、その花粉が薬になりますの」
 本来は採取した花粉を乾燥させ、火にくべて香りを吸い込むものであるが、もっと強い効果が欲しければ粉のまま吸い込んだり、特定の液体に混ぜて直接体内に注いだりすることも出来る。
 初期症状は意識の混濁と全身の脱力感。
 身体が慣れてくると次は最高の快楽が訪れる。どんな苦痛も、屈辱も、喜びにしか感じられないような。
 総じて麻薬とは常用性が高いが、これはまた別格なのだ。

「貴方は一度粉と液体、両方をその身に受けていらっしゃるのですもの。きっと慣れるのも早いですわよ?」
 わたくし達はもう慣れてしまっているけれど?

 革張りの椅子に腰掛け、脚を組んだミラルカが微笑みながら説明するのを聞きながら、ゾロは崩れそうになる身体を必死で支えていた。
 確かに船上での時程の苦痛はない。視界は霞み、身体は震えるが、体内から今までに感じた事のない感覚がじわじわと広がってきていた。苦痛とはまた別の感覚に、僅かに息が上がる。じわりと汗が滲んだ。

 その変化を見て取ったミラルカが薄く笑う。脚を解き立ち上がると、真っ直ぐにゾロの傍まで歩み寄り、細い指をゾロの頬へと伸ばした。
「獣のような目。力に溢れた身体。今まで何者にも犯されなかった、強い精神。美しい野生の獣。今、わたくしが最高の快楽をあげる。その時貴方はどの様に壊れていくのかしら・・・」

 どの様な表情で、わたくしに跪くのかしら・・・・・・。

 焦点の合わない瞳で、しかし抗う様に睨み付けてくるゾロの頬に、うっとりと指を這わせミラルカは唇を寄せた。










 ゲッカソウ、と呟いたのは誰だっただろうか。
「麻薬の中でも最も危険な物として取り締まられているのよ」
 淡々と説明するロビンに、何処か現実感を欠いた様なクルー達が視線を寄越す。
 唯一医者だけが、険しい表情で言葉を継いだ。
「一番怖いのは禁断症状だ。常用性が高いし強い高揚感があるから、薬が切れた時に凄まじい苦痛が襲ってくる。快楽と苦痛。その差に精神が耐え切れなくて廃人になることも多いらしい」
 確証はないが、甲板の状況から言ってもゾロがその麻薬を身に受けた可能性は高い。でなければ、魔獣とまで呼ばれた男がこの場に居ない筈がない。 

 誰が、何の目的で。

 沈黙を破ったのは、ルフィだった。
「普通に戦ったんなら、相手が誰でもゾロが負けるわけねぇ。こんな卑怯なやり方であいつを奪ったなら、赦さねぇ。変な薬でなんて」


 ゾロの誇りを、踏み躙ったんだ。


 漆黒の瞳が、強い輝きを放つ。いつもの無邪気な表情は掻き消され、炎の様な鋭さを身に纏う。
 他のクルーも同様だった。どれだけふざけている様に見えても、彼らは海賊だ。海賊のものに手を出し、その誇りを踏み躙るのなら、それ相応の覚悟をしてもらわないとならない。

 サンジは銜えていた煙草を噛み千切り、乱暴に海へと吐き捨てた。
 午前中までゾロは自分の隣に居たのに。自分の言葉に赤くなったり、緩やかに笑ったり、鮮やかな表情を見せていたのに。知らず、握り締めていた拳に力が入る。
 何処に。何処にいる。ゾロ。

「手掛かりが何もないもの。取り敢えずは町で情報を集めるしかないでしょうね」
 いきり立つ船長を宥める様に言ったナミの言葉に、サンジはあることを思い出す。
 あの町で、住民達はゾロに何か言いたげな視線を浴びせていたではないか。あの時は特に気にしなかったが、酒屋で店主にさり気なく声を掛けられていなかったか。何気ない様子で、しかし僅かにゾロが眉を寄せていたような気がする。
 何の関係もないかもしれない。けれど手掛かりになるかもしれない。
 船を下りようとする仲間達を呼び止めて、サンジは慎重に口を開いた。












 撫でる指とは反対の頬に寄せられた唇に、ゾロは軽く身じろいだ。
「・・・・・や、めろ。俺に触るな」
「あら、どうして?薬が効いてきているのでしょう?それ以上の快楽をわたくしが差し上げようとしているだけですのに」
 頬に触れた指は、顎の線をなぞり、首筋を辿り、鎖骨を撫で、胸元へと降りてくる。一度離された唇は再び寄せられ、左耳のピアスを舌でなぞる。チリ、とピアスの立てる音と共にミラルカの吐息が耳を掠り、ぞくりと背筋が粟立つ。
 僅かに震える息を吐き出したゾロにしな垂れかかる様に身を寄せたミラルカは、ねえと囁き掛けた。

「わたくしが・・・・・欲しくない・・・・?」

 それは男の本能に直接響くような艶を帯びた声だった。
 薬は既に全身を巡り、身体の奥底から得体の知れない熱が湧き上がってくる。その熱は指先まで伝わり、先刻手枷によって傷付いた手首も痛みは感じず、滲んだ血の流れすらぞくぞくと背筋を震わせた。
「ねぇ・・・・?」
 再び囁かれた声に、ゾロの肩が揺れた。ゆっくりと首が前に倒れミラルカの首筋に顔を埋める形になる。その首筋にかかる吐息が熱いのを感じ、ミラルカが勝ち誇った笑みを浮かべた瞬間。

「・・・・・はっ・・・・・ははっ・・・・・」

 ゾロの肩が、首筋にかかる息が、小刻みに揺れている事に気付いたミラルカは動きを止めた。ゾロが笑っているのだと理解し、目を見開いて一歩退く。
 自分の腕の中に堕ちたと思った男が笑っている。薬が効いていないのか。そんな筈はない。目の前の男の身体は熱く、瞳は潤んで僅かに焦点が合っていない。効いていない筈がない。
 信じられないといった面持ちで俯いたまま笑うゾロを見つめる。
 笑いを収めたゾロは、首を持ち上げ表情を凍らせたミラルカへ視線を投げかけて、にやりと口の端を吊り上げた。

「テメェなんざ、欲しいもんかよ。んな臭ぇ匂い纏わり付かせた女、誰が抱きたいもんか。自惚れも大概にしろ」

 投げ付けられた侮蔑の言葉に、ミラルカの顔色が変わる。己の容姿に絶対の自信を持っていた女はその矜持を傷付けられた様であった。
 しかし無様に衝撃を表に出す事はせず、歪んだ口元を隠すように再び笑みの形に動かす。
「あら・・・もしかして貴方、女性はお嫌いかしら?そういったお相手は男性の方がお好み?例えば・・・・・町で一緒に歩いていた方のような」
 見下すように、しかし僅かに余裕を欠いた声音で答えるミラルカに、ゾロは鼻を鳴らした。
 一人の人物の顔が脳裏に浮かび、胸か軋む音を聞いたが、表に出す事はせず言葉を紡ぐ。
「――――さぁな?男だろうが何だろうが、テメェよりマシだ」

 今度こそ女の矜持は叩き折られた様であった。
 その顔は青褪め、引き結んだ唇の端が震える。手を握り締め更に一歩退いた女に代わり、前に進み出たザンデが強かにゾロの顔を殴りつけた。唇が切れ、飛んだ血液が床を汚した。紅い筈の血は赤い絨毯に吸い込まれどす黒く染まる。


 そういえば、此処に来てから赤と黒ばかりだ。
 黒い髪、紅い唇、赤いドレスの女、赤い絨毯、黒服の男、紅くどす黒い自分の血。
 唇の端に流れる血を舌で舐めとる。鉄の味がする筈のそれは、何故か酷く甘かった。
 ゾロの口元に自嘲的な笑みが浮かぶ。


 いっそ滑稽だ。目の前の男女も、薬に蝕まれた自分も。


「痛く、ねぇな。テメェらの薬のお陰ってやつか?」


 凶悪な笑みを浮かべたままのゾロに、ザンデすら僅かに身を引いた。
 血の気の引いた青白い顔。ミラルカの青褪めた表情と並び、赤と黒以外の色を認めたゾロは今度こそ肩を揺らし、声を立てて笑った。
「――――っ!ザンデ、水薬を。それから、あの刀をここに持ってきて頂戴!」
 ひび割れたミラルカの声が狭い部屋の中に反響する。踵を返したザンデが扉の向こうに消える。
「せっかく、わたくしの手で優しく壊して差し上げようと思いましたのに・・・」
「願い下げだ」
 咎める様な声に冷ややかに返す。しかし動こうとしない体躯を見て取ったのか、余裕を取り戻したらしいミラルカは再び椅子に腰を下ろし、組んだ脚の上に肘を付く。
 白い手で顎を支えると、まぁ良いですわと呟いた。

「この香りで屈しない貴方には、快楽だけなんて優しい方法は止め。躾のなっていない獣にはお仕置きが必要ですわね」 
 此処まで手強いのは初めて。ぞくぞくしますわ。

 先程ランプに放り込まれた粉は燃え尽きて、既にその効果を失っているらしい。鼻腔に侵入して来る香りが薄くなっている事に気付く。
 その時扉が開いて、姿を現したザンデが手にした物を見たゾロは低く唸った。
「・・・・刀を、返せ」
「駄目。貴方に差し上げるのはこっちの方」
 三本の刀を壁に立てるザンデから受け取った小さなケースを持ち上げ、ひらひらと見せてくる。それを開き、取り出した何かをミラルカは再びザンデへと渡す。黙したまま近付いてきた男の手に握られているのは。液体が詰められた小さな注射器だった。
 細い針先がランプの火を反射して鈍く光る。その光を受けた眼帯に覆われていない右目は、底の知れない闇色をしていた。
「・・・・悪く思うなよ。ロロノア」
 戒められた手首を掴み、腕に針を突き立てる。
 液体が己の身体に吸い込まれていく様子を他人事のような目で見ていたゾロは、数瞬の後襲ってきた感覚に息を呑んだ。

「――――っ!!ぅあ、あっ!」

 身体の中に緩やかに渦巻いていた熱が、突然凶暴さを増し暴れる。仰け反った身体に引き摺られた鎖が音を立てる。反らされた咽喉元を伝う汗が妖しく光った。
 自分の体重も分からない程の浮遊感と、身体の内側から撫でまわされる様な熱に息が上がる。全身を伝う汗の流れも、肺に流れ込む空気の動きすらもゾロの神経を昂らせた。
「気持ち良いでしょう?どんな刺激も全て、快楽の元」
 耳に飛び込んできた言葉でさえ熱に変わり、薄く開かれた唇から熱い吐息が零れる。腕をびくりと震わせ、俯いたゾロの目に馴染んだ輝きが映った。輝きを追うと抜き身の和道がミラルカの手に握られている。

 冷たい光を放つ切っ先が己の肩へと触れてくるのを、ゾロは熱に浮かされた瞳で、ただ見詰めていた。










 どんっ!!

 蹴り付けられ揺れた棚から、振動に耐え切れなかった酒瓶が数本床に落下する。ガシャンと耳障りな音を立てて割れた瓶から酒の匂いが立ち上り周囲に漂った。
 蹴り付けた体勢のまま、サンジは床に蹲った店主へと鋭い視線を投げ付ける。
「だから、午前中俺と一緒に此処に来た剣士に何を話したのか教えてくれって言ってるだけだろうが?」
 低く押し出したサンジの声に、ひ、と短く息を呑んだ店主は蹲ったまま身体を震わせた。その様子にサンジは舌打ちの音を立てる。店主の両脇にはルフィとロビンが立っている。他のクルー達は店の前で邪魔が入らないように入り口を固めていた。


 サンジの言葉によって取り敢えず酒屋を目指す事にした一同だが、その道中にも住民に声をかけ少しでも情報を集めようとした。しかし、状況を話す度に住民達の顔は強張り、視線を逸らして何も知らないと繰り返すばかりだった。
「なんつーか、如何にも何か知ってます!って感じだよな」
 頭を掻き毟りながらウソップがぼやく。
 その言葉を受けて眉を寄せたロビンが口を開く。
「そうね。だけど言えない。それだけ地位があるのか、力があるのか・・・どちらにしても上手い事此処の人たちを支配しているようね」
「そうなると一々周りの人に聞くのは時間の無駄ね。ゾロに話しかけた内容って言うのが今回の事に関係あることなら、その酒屋さんが一番口を割らせやすいかもね」
 さっさとそこに向かいましょう。
 ナミの言葉に頷いて、真っ直ぐ辿り着いた店の主は、しかし他の住民と同じ様に何も知らないと返したのだった。


「なぁ。俺ぁそんなに気が長い方じゃねぇんだ。さっさと教えてくれよ」
 いらいらと声を荒げるサンジの隣で、ルフィは腕を組んだまま黙って店主を見下ろしていた。
 がたがたと震える店主に次に優しく話しかけたのはロビンだった。
「ねえ、店主さん。私達はただ、うちの剣士さんを返して貰いたいだけ。剣士さんに何を話したのか教えてくれない?決して悪いようにはしないわ」
 優雅に微笑む彼女に、縋るような視線を寄越した店主はやがてぼそぼそと話しだした。

「・・・・此処の領主に気を付けろと。早くこの島を出ろと伝えた」

 大当たり。
 視線を交わした三人は軽く頷きあう。それはどういうことかしら?と殊更優しい声音で質問を重ねるロビンに、店主は絶対に自分が話したという事は漏らさないでくれと繰り返す。
 頷いて約束すると、隠すことは諦めた様子で話し始めた。
「この島の領主・・・ミラルカ様は、あんた達の連れのような男が好きなんだ」
「ゾロのような・・・?」
 脚を下ろし首を傾げるサンジに。ああと返し言葉を続ける。
「真っ直ぐな目をした男。曲げない強さを持った男。見目がいいのは前提条件だ。町の奴らもあの剣士を気にしていただろう?余りにも条件が当て嵌まる過ぎているんだ。俺達ですら直ぐに分かったんだから、目をつけられない訳がない」
 その内容に、サンジは軽い眩暈を覚える。


 あのクソマリモ!所構わずフェロモン垂れ流すなって何時も言ってんのに!!


 不謹慎と思いつつも、そんな思いがぐるぐると頭の中を回る。
 思わずその場に蹲ったサンジに構わず、ロビンは話を続けた。
「それで、その好みの人を見つけた領主さんはどうするのかしら?」
「さあな。お屋敷に連れて行かれるみたいだが、どうやってなのかもその後のことも知らん。ただ戻ってきた奴は居ないって事と、山では麻薬が栽培されているってことだけだ」
 やけくその様に答えた店主は、自分が知っているのはこれで全部だと吐き捨てた。
 丁重に礼を言い、割れた酒瓶の分の代金を払うと一同は店を後にした。

「さて、どうしましょうか」
「その領主の屋敷に行って、ぶっ飛ばして、ゾロを取り返す!」
 事情を聴いたナミが、まぁ念の為確認するけど、と前置きした上で口にした言葉にルフィが即答する。
 反論などあろう筈もない。既に全員が臨戦態勢だった。
「領主さんの屋敷なら、矢張りあの山の中腹にあるやつでしょうね」
 それじゃ、行きましょうか。

 ロビンの声を合図に、麦藁海賊団は自分達を見下ろし佇む屋敷に向かって足を踏み出した。

 



微妙にゾロと女の人が絡んでて自分でちょっと嫌になってみたり(笑)
でも誘惑には乗らないよ!だってゾロだもん!
そして、シリアスなつもりなのにやっぱり何処かで可笑しいサンジさんでした。


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