清冽な光を放つ筈の刃は、今は紅い色に染められその輝きを失いつつあった。刀身を伝い鍔に溜まった血が音も無く滴り絨毯へと吸い込まれていく。
何度も身体を浅く切り裂いていった刃が次第に己の血の色に染まっていくのを、ゾロはどこか遠い目で見つめていた。
右肩、左脇腹、腕、太腿と刃が通り過ぎていった場所から血が流れ落ち、全身を刃と同じく紅に染め上げていく。その刀の柄はミラルカの白い手に握られている。
「殺しはしませんわ・・・」
ゆっくりと持ち上げられた刃は、ゾロの頬へと寄せられた。ぷつりと皮膚が切れる感触と共に新しい血筋が刀身を伝う。それに妖艶な笑みを浮かべたミラルカは刀を引き、一振りする。刃に纏わり付いていた血が振り払われ、和道は再び輝きを放った。
「自分の刀に傷付けられていくのは、どんな感じかしら?剣士さん?」
浅い呼吸を繰り返すゾロは、何も答えない。滴る血の流れに併せて、時折ピクリと身体を震わせるだけだった。
失血で冷えていく身体は未だ薬に蝕まれ、浮遊感と底知れぬ熱を感じている。体内で暴れる熱と、じわじわと染み込んでくる冷気。相反する感覚が脊髄を撫で、脳内を支配し、それを快楽とはじき出す。痛みは感じなかった。身体を撫でていく冷たい流れは、いつかの穏やかな夜、キッチンで、倉庫で、己に与えられた優しい指先へと塗り替えられていく。
「・・・・・ン・・・ジ」
色を失った唇が、その指先の持ち主を呼んだ。しかし、その呟きはあまりにも儚く誰の耳にも届かないまま、熱い吐息と共に空気中へ掻き消されていった。
薬に支配された脳であっても、あまりの刺激の強さに身体へ活動停止の指示を出したようであった。意識を手放したゾロを満足げに見下ろしたミラルカは刀を鞘に収め、ザンデへと振り返る。
「この方を別の部屋へうつして頂戴。ここは暗すぎますわ。薬が切れて、苦しむ姿を良く見られる部屋へ・・・ね」
ちろりと唇を舐める舌は赤く蠢き、爬虫類のそれを感じさせた。黙したままゾロへと足を進めるザンデの腕を取り、軽く引き寄せたミラルカはその舌を男の首筋へと這わせた。足を止め、それを受け止める男に薄く笑う。
「可愛いザンデ。わたくしは魅力が無いかしら?」
「・・・・いいえ、マイ・ロード。貴女は何時でも美しい」
その言葉に満足そうに微笑んだミラルカは、身を翻してその部屋を後にした。
主の命令を遂行するべくゾロの手枷を外すザンデの表情は、闇色の瞳と同じく底の窺い知れないものであった。
「いい加減・・・しつこいん、だよっ!!」
焦りと怒りに満ちたサンジの脚が黒服の男たちを薙ぎ倒す。彼の隣ではルフィが同じように男達を吹き飛ばしていた。
ある程度の邪魔はあるだろうと予想はしていたが、領主の屋敷に至るまでの道中、麦わら一味の進撃を防ぐべく配置された男達の数はその予想を遙かに上回っていた。そこそこの手だれが揃っていたが、彼らの敵ではなかった。ただ気になるのは、全員が「ミラルカ様の為」「あの方の望みのままに」と口にしているということだ。
自分の主に対しての忠誠心と括るにはなにやら異様な雰囲気であった。
「これって、よっぽど部下に慕われている領主と受け取っていいのかしら」
やはり同じように叫びながら、襲ってきた男を天候棒で沈め、ナミが呆れた様に呟く。その意見にサンジも同感であった。名前からして領主は女性なのだろう。女性に尽くすのは彼の騎士道に沿ったものではあるが、目の前の事態はどこか違和感があった。ふと、ロビンが思い付いた様に口を開く。
「麻薬の栽培と、この人達の服従になんらかの関係があるのかしらね。男性に対する女性ならではの快楽と、薬による高揚感。この二つを上手く絡ませたら男性を虜にすることも可能じゃないかしら。まあ、流石に大半の人達は麻薬の影響と考えても良いでしょうけれど」
その言葉に納得しかけた一同は、それが持つ意味に青ざめる。
じゃあ、ゾロは。
一人意味を推し量りかねた船長が首を傾げる。何だよ、どういう意味だ?軽い調子で問いかけながら、地に伏せたままそろりと投げ出された銃に手を伸ばした男の背を思いっきり踏みつける。押し潰された悲鳴に誰も気を払う事も無く会話は続けられた。
「つまり、薬に与えられた高揚感に、女の人の身体という本能的な快楽を重ねて与えたら、大抵の男性の場合正常な判断が出来なくなるということよ」
やはり直接的な表現は憚られたのか、ロビンの言葉と大きく変わらない婉曲的は表現を使ってナミが説明する。当然といえば当然、ルフィには理解し難かったようだ。
さらに大きく首を傾げたが、それ以上は誰も説明しようとはしなかった。ふうん。と曖昧な声を漏らしたルフィは、難しく考えることは止めたらしい。
「まあいいや。どんなことでもゾロが駄目になったりしねぇし!」
しし、と独特な笑い声をあげて、ウソップ、チョッパーを引っ張って再び前へ進み始めた。残った年長組は、微妙な表情で顔を見合わせる。
「・・・・そうね、ゾロがそんなのに骨抜きになってるなんて想像できない」
「・・・・そうだよね・・・」
そう言いつつもナミとサンジの顔色は優れない。その理由をロビンはあっさりと言葉にした。
「骨抜き、にならなかった場合、プライドの高い女性が相手だと、さらに酷い扱いを受ける可能性があるわよね」
あえて言わないようにしていたのに、とナミが顔を顰める横で、サンジは黙って俯いた。長い前髪がその顔を隠し、表情は窺い知れなかった。
「ごめんなさい」
二人に、というよりサンジに対して謝罪の言葉を述べたロビンに、顔を上げ首を振る。
「・・・・急ごう」
それから三人は、無言のまま先行したルフィ達を追いかけた。
再び意識を取り戻したとき、周囲の光景はまた変化していた。明るい部屋だった。広さも先ほどの部屋の数倍あるだろう。今度は白が基調となっている。溢れる光に目が眩む思いでゾロは数回瞬きを繰り返した。場所は変わっても自分の体勢には大きな変化は無かった。違うのは、両手は壁に鎖で繋がれているわけではなく、足と同じように右と左と繋げる形で鎖が伸びているという事だった。にも拘らず、両手を持ち上げる形になっているのは、右手から左手へと伸びた鎖の中間に刀が突き立てられ、その切っ先は壁へ沈んでいる為であると理解する。
身体に張り付くシャツは、いまだ自分の血で染められ、濡れていた。傷は開いたままだが、出血自体は止まりかけている様だ。それなのに、痛みを感じない。白の中に紅い自分。痛みを感じない身体はまだ薬に支配されているのだろう。
滑稽だ。着実に強くなっていると、思っていた自分はなんて無様なのだろう。
込み上げてきた自嘲的な笑いをそのまま口に浮かべようとしたゾロは、自分の正面に張られた鉄格子と、その向こうに自分と同じように白い光景の中に赤く浮かび上がる人影を認め、動きを止めた。
「あれから1時間半。注射の量はそれほど多いものでは無かったですから、そろそろですわね」
「ほんとに悪趣味だな、テメェ・・・」
麻薬を打たれて、そろそろ、とくれば嫌でもその意味は分かる。効果が切れる。そうなった時の自分の反応を待っている。
負ける気は無い。しかし相手が薬となるとどう対抗していいのか分からない。
ゾロの逡巡を見透かしたかのように、ミラルカは笑みを浮かべた。すでに見飽きてしまった吐き気のする様な笑み。嫌がらせに本当に吐いてやろうかと半ば本気で思う。
「――――っ?」
その時ゾロの心臓が大きく波打った。身体の中の熱が急速に冷めていく。血液が逆流し細胞から酸素を奪っていく様な錯覚を覚える。全身の神経がゾロの意思を無視し好き勝手に暴れ始めた。息が出来ない。息を吸おうとするゾロに従わず、肺は空気を吐き出そうとする。ひくりと咽喉が痙攣する。
足りない。たりない。タリナイ。もっと。もっと、熱を。
熱を失った身体の中から、飢えにも似た感情が湧き上がる。ずくずくと全身の傷が疼いた。視界が赤く染まる。
イタイ、クルシイ、タリナイ。―――ホシイ。
体内の声に翻弄されそうになり、唇を噛み締めるゾロに見せ付けるように、ミラルカは鉄格子越しにひらひらと水薬を詰めた注射器を振ってみせる。
「欲しいでしょう・・・?」
いらねぇ、と答えようとしたゾロだが、それに反し、身体は薬に向かっていこうとする。思い金属音を立て踏み出された足に付いていこうとした上体は、刀によって磔られた腕に阻まれた。鎖と刃が擦れる音に一瞬我に返る。
今、俺は何をしようとした?
ホシイ。
今、俺は、この女に屈しようと・・・?
ホシイ。ホシイ。
全ての誇りを、投げ捨てようと・・・?
ホシイ、ホシイ。ネツヲクレル、カイラクヲクレル、アノ、クスリガ。
「・・・・・うるせぇ・・・・・・」
頭の中で暴れる誘惑を追い出そうと、絞り出した声は、あまりにも心許無いものだった。麻薬によって痛みも分からず熱に溺れた身体は、突如訪れた苦痛と飢えに対応しきれず、神経は焼き切れそうだった。精神が悲鳴を上げる。瞳は見開かれ、全身は僅かに痙攣していた。薄く開かれた口の端から溢れた唾液が顎をつたう。
その様子を、ミラルカは酷薄な笑みを貼り付けたまま眺めていた。
「ほら・・・欲しいって、おねだりして御覧なさいな」
「・・・・・・ぅ、あ・・・」
「楽に、なりたいでしょう?・・・・さあ」
あと少しで、この綺麗な獣の牙は叩き折られる。
それを確信し勝ち誇ったように囁くミラルカの耳に飛び込んできたのは、ゾロの懇願ではなく、何かを破壊する音と彼女の名を呼びながら駆け込んできたザンデの声だった。
「ミラルカ様!」
「なあに、ザンデ?騒がしいですわね」
邪魔が入ったことに不機嫌さを隠そうともせず、細い眉を寄せる。その様子に軽く頭を下げたザンデが、そのまま慌ただしく告げてきた言葉にさらに深く眉を顰めた。
「この方の仲間が・・・?」
仲間。その単語はゾロの瞳に、一瞬光をよぎらせた。それを見咎め、片眉を上げたミラルカだが、すぐにその光が消え失せるのを確認し僅かに鼻を鳴らす。
これからが面白いところなのに。
無言のまま指示を待つザンデへ、責めるような視線を投げかける。
「人数は?」
「六名です」
「それだけ?なら慌てる事も無いでしょう。第3部隊は屋敷の出入り口を固めて。残りの人達は、侵入者を阻止。この部屋へは近寄らせないようにして頂戴」
その指示に頷き踵を返そうとした時、一際大きな物音と悲鳴が響き渡った。
部屋が揺れ、ミラルカがバランスを崩す。細い手から滑り落ちた注射器が床にぶつかり澄んだ音を立てて砕ける。割れた破片の間を縫って水薬がとろりと広がった。
「渡さない。わたくしの、獣・・・!」
ぎりぎりと鉄格子を握り締めるミラルカの耳に、聞きなれない声が届いてきた気がした。悲鳴を上げる彼女の僕達に混じってまだ年若い少年と少女の声がする。
「馬鹿ルフィ!手当たり次第に行くなって言ってるでしょ!」
「だって部屋が一杯でわかんねェじゃん。全部の壁壊したほうが早えぇ!」
「そりゃそうだ」
「サンジ君も納得しないで!」
およそ緊張感に欠けている会話に、一瞬判断が遅れた。それでも自分の身体を支えたザンデに向かって新たな指示を出そうとしたその時。
「ゴムゴムのぉ〜〜〜」
扉を閉めた部屋の廊下側、壁を一枚隔てた所から少年の声がする。
「銃乱打!!!」
その声と共に凄まじい衝撃が壁を襲い、白く滑らかな壁に蜘蛛の巣のようなひびが入る。指示を出そうと口を開いたそのままで動きを止めたミラルカの目の前、轟音と共に壁は崩れ落ちた。
もうもうと立ち込める埃が収まりかけた頃、館の主と六人の侵入者は初めてお互いを認めた。
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