「ほらな!居たぞ、ゾロ!」

 
白くけぶる空気の向こうに、若草色の髪を認めルフィが笑う。吸い込んだ埃にむせながらナミやウソップはほっとした様に表情を緩めた。
 
しかしその中、サンジとチョッパーは鉄錆の匂いを嗅ぎ取り、ロビンは若草色の髪の上方に突き立てられた刀を認めた。


・・・ルフィ。暢気に笑ってる場合じゃないかもしれない」
 
低く緊張したチョッパーの声音に、ルフィの笑顔が消える。
「航海士さん。状況は最悪かもしれないわ」
 
冷静に告げる言葉に、他のクルー達も顔を強張らせた。
 
視線を転じたクルーの目に飛び込んできたのは、鉄格子の向こう側。両手両足を鎖に繋がれ、自分の愛刀で壁に磔られた剣士の姿だった。全身は血に染められ、僅かに痙攣している。項垂れた顔の表情は窺えないが呼吸は不規則で尋常な様子ではなかった。

「ゾロ!!!」
 
駆け寄ろうとしたルフィとウソップの前に黒い影が立ちはだかる。
「退け!!」
 
殴りかかったルフィの拳は、鋭い刃に跳ね返された。燃える視線に臆することなく向かい合う左目に眼帯をはめた男の手には、奇妙に反り返った刃の剣が握られている。円月刀、という名を知る由も無かったが、その剣が切り裂くことに重きを置いて作られているという事を理解し、ルフィは身構え目の前の男を睨み付けた。
 男の後ろには鉄格子があり、更にその奥には大切な彼の仲間が磔られている。
「ゾロを返せ」
「・・・侵入者め。排除する」
 
二人の間に渦巻く鋭い空気に、ウソップが一歩引いた。

 じりじりと後退るウソップの肩がナミのそれとぶつかった。その強くは無い刺激にナミの身体がぐらりと傾ぐ。
「おい、ナミ!」
 
慌てて身体を支えるウソップの声など届いていないかの様に、彼女の視線はただ一点に注がれていた。




 
強いと思っていた。いっそ傲慢な位自信に満ちた男。しかし不器用な優しさを持ち、何時だって自分たちを守ってくれていた男。
 頼り、寄りかかっていたつもりは無い。しかし、その逞しい腕が、揺るがない背中があれば全ては大丈夫なのだと、そう信じていた。
 
ルフィと並んで前へと進む、あの真っ直ぐな瞳に付いて行けることを誇らしくも思っていた。

 
その男が今目の前で磔られて居る。僅かに痙攣している身体。不規則な呼吸。血に染められた姿は儚く、今にも崩れてしまいそうだ。




 
信じられない。信じたく、無い。




 
ぱん!!

 
ゾロの状態に強い衝撃を受け呆然としていたナミは、突然己の頬に走った痛みに我に返る。頬に手を当てゆるゆると視線をあげると、ロビンが険しい表情でナミを見ていた。

しっかりしなさい。貴女が動揺してどうするの。剣士さんは間違いなく麻薬に犯されている。今の状態が彼の所為ではないことは分かっているでしょう」
「ロビン・・・」
 
力なく呟いたナミをウソップとチョッパーが心配そうに覗き込む。
 傾いだ自分の身体を支えてくれていたウソップに、ありがとと告げ、ナミは自分の足で立ち上がる。その表情は先程の動揺は消え失せ、いつもの彼女だった。
「・・・ありがと、ロビン。もう大丈夫」
「いいえ。叩いたりしてごめんなさい」
 
気丈に微笑むナミに軽く笑顔を返したロビンは、すぐに表情を引き締めると両手を胸の前で交差させた。
「今はとにかく、剣士さんを助けないと」
 
そう言って項垂れるゾロの傍に細い腕を咲かせる。
 彼を戒めている刀に手をかけようとした時、自分の脇を駆け抜けて行った影に気付き目を見張った。


「あっ!」

 
短い悲鳴が上がり、いまだ睨み合い間合いを計っているルフィ達以外の視線が一点に集中した。

 
ロビンの脇をすり抜けていったのはサンジだった。その足元には赤いドレスの女性が座り込んでいる。左手でもう片方の手を庇い、サンジを睨み付ける女の傍には短剣が転がっていた。ゾロの戒めを解こうと生やしたロビンの腕を狙って、女が投じようとした短剣をサンジが蹴り落としたのだった。

「レディ。そんな物騒なもの、うちのクルーに投げつけないでくれますか?」

 
やんわりと告げるサンジの声は、酷く冷たかった。

 
その時初めて、ナミはこの部屋に入ってからサンジが一言も発していなかったことに気付いた。
 
女を見下ろすサンジの口元には笑みが浮んでいる。しかしその眼は発された声と同じく、冷たく凍えるような色をしていた。




 
サンジという男は、普段から感情豊かだ。どんな時もその表情と態度で全てを物語る。怒るときもそうだ。青筋を立てて盛大に眉を顰め、大声で悪態を付く。
 
しかし、本気で怒った時の彼はそれを表情に出さない。静かに微笑み、氷のような瞳と声で相手を切り裂いていくのだ。
 
今までの付き合いの中で、ナミはその事を学んでいた。



 
間違いなく、今のサンジは本気で怒っている。



「ミラルカ様!」
 
ルフィと対峙していた男が声を上げた。その一瞬の隙を見逃すルフィではない。短く息を吐き出し一足飛びに殴りかかる。辛うじてその一撃を避けた男は舌打ちし、なおも繰り出される拳を捌くことに集中するしかなかった。

 
二人の激しい攻防に目をくれる事無く、サンジはミラルカを見下ろしていた。

「ミラルカ・・・外の人達が呼んでいた領主さんの名ね」
「じゃあ、あれが・・・黒幕か!」
 
色めき立ち、身構えるクルー達を振り向くこともせず、片手を挙げて制する。
 その手を背に回し、もう片方の手を胸の前に添えると、サンジは優雅に頭を下げた。

「失礼、レディ。美しい貴女の館を騒がせたことはお詫びいたします。こちらにうちのクソ剣士がお邪魔していましたようで。引き取りに参りました」

 
頭を持ち上げたサンジはミラルカへにっこりと笑いかけた。金色の髪が光を反射しきらきらと踊る。端正な顔立ちに相応しい魅力的な笑顔だった。

「返して、いただけますね?」

 
蒼い瞳に宿る、氷の様な冷たい輝きさえなければ。


 
その気迫に気圧され、ミラルカが息を呑む。声を出すことも叶わず喉を震わせサンジを見上げるばかりだった。
「ロビン。今のうちに」
 
チョッパーの囁きに、初めて見る優しい料理人の激しい怒りに思わず見入っていたロビンが我に返った。
「あ、ああ。そうね」
 
再び腕を交差し咲かせた腕は、今度こそゾロを戒める刀に手をかける。渾身の力を込め引き抜かれた刀に、支えを失ったゾロの身体が床へと崩れ落ちる。手足に繋がれた鎖が、重い音をたてる。新たに咲いたロビンの腕がその身体を抱き留めた。その腕から伝わるゾロの様子に眉を顰める。
「船医さん。急がないと。その鉄格子を何とかできる?」
「わかった!ランブルボールで・・・」
 
チョッパーが行動を起こそうとしたその時、女の金切り声が響いた。


「触らないで!!わたくしの物よ!!」


 
声の主はミラルカだった。サンジの気迫に飲まれていた彼女は、鎖の音にゾロへと視線を転じ、咲いた腕に抱き抱えられているのを見て取乱し叫んだ。
「わたくしの獣よ!わたくしだけの!!渡さない!!」
 
その言葉にサンジの眉が跳ね上がる。浮かべられていた笑みは掻き消されていた。

 
ミラルカがあげた声は、再びザンデの集中力を乱した。鋭く繰り出された拳に吹き飛ばされる。
「がっっ!!!」
 
壁に叩きつけられ、骨が軋んだ。衝撃に開かれた口から血が溢れ、飛び散る。刀を握ったままの腕と、仰け反った喉を掴み動きを止めたルフィは、たった今叫び声を上げた女へと視線を転じた。

「・・・・貴女の?どういう意味ですか」

 
冷たく凍えるような声音のまま尋ねたサンジは、ミラルカの返事を待たず鉄格子へと足を運ぶ。そのため逸らされた視線は僅かながらミラルカに余裕を取り戻させた。
 
壁に叩きつけられた己の僕をさして気にすることもなく、立ち上がり口元を歪める。

「どうとは?そのままの意味ですわ」

 
しかし、その余裕は長くは続かなかった。
 
吐き出されたミラルカの言葉に重なるように、凄まじい衝撃音が響く。再び言葉を失ったミラルカの目の前で、鉄格子が無残に捻じ曲がっていた。再度繰り出された蹴りにその格子は今度こそ吹き飛ばされる。

 
自分とゾロの間に立ちはだかる格子を蹴り壊して振り向いたサンジは、足元に割れた注射器とそこに広がる水分に気付いた。それが何なのか、想像に容易い。反吐を吐く思いで、散らばるガラスの破片を革靴の底で踏みにじった。

「・・・訂正していただきましょうか。こいつは貴女のものじゃない」

 
低く押し出したサンジの声に、しかしミラルカは何処か不気味さを感じさせる声で答えた。
「わたくしのものよ・・・。だって、もうその方はわたくしから離れられない」
 
次に発せられた言葉は、部屋の空気を凍らせるのに十分な内容だった。



「禁断症状が出てますもの。きっと今の彼は薬が欲しくて堪らない筈」



 
ナミやウソップ達はもちろん、冷静な筈のロビンですら動揺を隠し切れなかった。チョッパーの話が脳裏に蘇る。快楽と苦痛。落差に耐え切れず精神崩壊。
 
その部屋だけ時の流れから見捨てられたかの様に感じられた。

 
その為、こちらに向かって来る複数の足音に気付いたのはおそらくミラルカだけだっただろう。出入り口を固めていた部隊が、立て続けに起こった破壊音に、ようやっと駆けつけたのだった。
 
近付いてくる音に気付かず、チョッパーが震える声を押し出す。

「う・・嘘だ。だって、月下草の禁断症状は、もっと酷い筈だ」

「そうですわね?わたくしも予想外。もっと悶え苦しんで、薬を強請ると思っていましたのに。素晴しい精神力・・・・。でも、もう限界じゃないかしら?現にあなた達の声は彼には届いていない様ですもの」

 
バラバラと部屋に駆け込んできた十数人の男達が、一同を取り囲む。一人がミラルカの傍へと駆け寄り、その身を庇う。もう一人、ザンデへと近付こうとしたが、それは無言のルフィの眼力に阻まれた。

「月下草に中和剤はありませんわ。このまま壊れるか、わたくしに跪いて薬を受け取るか。どちらにしても、もうわたくしのものよ!!」

 
けたたましい笑い声が瘴気の様に広がり、白い部屋をどす黒く穢していく。

「・・・狂ってる・・・」
 
唾棄するように呟いたナミの言葉は、ただその瘴気を色濃くしただけだった。

「狂ってる?そうね、わたくしを狂わせたのはその剣士ですわ。その気高さが、強さが、美しさが。わたくしを狂わせたのよ!」
 
じり、と包囲する輪が狭くなる。自分たちに向けられる敵意に、しかし一味は僅かな動きも見せなかった。それを恐れと受け取ったのか、ミラルカは整った顔を歪め、一層醜く笑う。

 
その笑いを打ち破ったのは、ルフィだった。もがくザンデを押さえ付けたまま口を開く。


「ゾロの所為にするな。お前は自分で狂ったんだ。お前は、ゾロの誇りを踏み躙った」


 
まだ少年の域を出ない彼の声は、しかし抗うことの出来ない強さを持って響いた。
 
その声は、一味の体内に燻っていた怒りという感情を開放させ、取り囲む男達に恐怖という感情を思い起こさせた。
 
いまや完全に表情を消したサンジが、無造作にミラルカを庇う男へと歩み寄る。




「死んで、償え」




 絶対的な響きの声は鋭い刃となり、部屋に渦巻く瘴気を切り裂いた。
 その冷え冷えとした声と同時に、握り締められたサンジの拳が男を吹き飛ばした。



はい。切れました。
最後のルフィの台詞とサンジの行動。普段の彼らには有り得ないですが、それだけの意味を持っているのです、よ。
(’08.8.24)

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