船に戻ってからもゾロは、激しい禁断症状に苛まれていた。苦しそうに浅い呼吸を繰り返したかと思うと、突然大声を上げて暴れた。
中和剤は無い麻薬だから結局は自分で乗り越えなければいけないのだと、告げたチョッパーは、大粒の涙を零しながらゾロの傷の手当てをしていた。
「ごめん・・・。俺がもっとしっかりした医者だったら、中和剤が作れたかもしれないのに・・・」
「チョッパーは十分やってくれてるわ。そんなに自分を責めなくてもいいのよ」
項垂れるチョッパーの背をナミが優しく撫でる。暴れるゾロの力は尋常では無い為、自ら名乗り出たのもあって、傍には常にサンジが控えていた。確かにそのときのゾロを押さえられるのは、サンジかルフィしかいない。
サンジがどんな気持ちで名乗り出たか察していた一同は、黙って彼に任せていた。
「ねえ、船医さん。中和剤は作れなくても、禁断症状を出来るだけ早く克服する方法はないのかしら」
何となく一人になりたくなくて、船に戻ってからの一同は常にキッチンに集まっていた。そんな中、ふとロビンが思い付いた様に口を開いた。
「はやく・・・?」
「そうよ。麻薬から解放される為には、普通拘束してとにかく麻薬が抜ける迄耐えるわよね。ただ、月下草は禁断症状が強すぎてそれを待つ間に剣士さんが壊れてしまう可能性のほうが高い」
「・・・・うん」
「幸い剣士さんは精神力が強い。黙って耐えるだけじゃなくて出来ることは無い?」
一言一言噛んで含めるようなロビンの言葉に、チョッパーは真剣な表情で考え込む。しばらくそうしていた医者は、顔を上げて慎重に話しはじめた。
「集中力・・・」
「え?」
「例えば、一本の枝とナイフを持たせてそれで枝が半分の細さになるまで削らせるんだ。削りすぎたり、力が入りすぎて枝が途中で折れたらやり直し。綺麗に削れるまで続けるんだ」
その説明にナミが得心したように頷く。
「そうか。理性がある時に目的と作業を与えて、その時間が延びるようにしていくのね」
「そう。だけどこれは別に対処法ではなくて、どれだけ正気に戻ったかっていう目安の意味の方が強いんだけど・・・」
今にもその方法を始めようとするクルー達へ慌ててチョッパーが補足する。しかし、それはルフィの笑顔に跳ね返された。
「何でもいいんだ。ゾロは変なとこで真面目だから、きっと一生懸命やるぞ。そしたら、直ぐに元に戻る!!」
ししし、と独特な笑い声につられて全員の顔に笑顔が浮んだ。
「そうだな!やれることはやってみようぜ!」
「そうよ。駄目で元々。試すだけならただよ」
一人の仲間の為に、全員が懸命に力になろうとしている。それがなんとも微笑ましく思えて、そして自分もその中の一人になっていることに気付いて、ロビンは柔らかな微笑を浮かべた。
「ナイフ・・・持たせて大丈夫なんですか」
大量の木の枝と小さなナイフを持って、ゾロのいる倉庫へとやってきたナミから事情を聞いたサンジは、僅かに表情を曇らせた。ナミや、頼りになる医者の言葉に逆らうつもりは無いが、暴れている時のゾロは尋常な様子ではないのだ。爪で己の身体を傷付けようとしたり、ところ構わず殴りつけた拳が血を流しても止めようせず殴り続けたり。それを止める度に胸が抉られる様な気がした。
そんなゾロにナイフを与えたら。最悪の事態が脳裏に浮び、頷くことは躊躇われた。そんなサンジの心境を汲み取ったのか、ナミがそっとサンジの腕に手を添える。
「大丈夫。ゾロを、信じてあげて」
「ナミさん・・・」
「それにね、サンジ君。男ならそんな時ゾロは自分が守る!位のこと、言ってみせなさいよ」
悪戯っぽく笑って見せたナミに、サンジは知らず入っていた肩の力を抜いた。
笑って見せているが、きっとナミも自分と同じ思いをしている。それでも自分を力付けようとしてくれているのだろう。本当に素晴らしい女性だ。
サンジは添えられた手に自分の掌を重ね、静かに微笑んだ。
「任せてください。あいつは俺が絶対に守ります。」
「うん。お願い。・・・ねえ?サンジ君」
「はい?」
「人は、自分の為だけには辛さに耐えることは出来ない。大切な人がいるから、待っている人がいるから頑張れるの。今ゾロが壊れてしまっていないのは、きっとそんな人がいるから。だから・・・お願いね」
泣き笑いのような表情で告げて、そっとその場を離れたナミの背を見送りながらサンジは握り締めた両手を額に当てた。
「わかってる・・・。俺だって、アイツが・・・いるから。アイツが、生きているから、耐えられるんだ・・・」
絶対に、ゾロを失ったりしない。
あの醜い女の傍になど送ってやらない。
心も、身体も。
決して自分の傍から離したり、しない。
何度か深呼吸を繰り返したサンジは強い瞳で前を見据えると、枝とナイフを抱え倉庫の中へとその身を滑り込ませた。
終わりの無い闇の中に閉じ込められている様だと、思った。何も見えないことがこんなにも恐ろしい事だったとは知らなかった。何かを求めるように手を伸ばしても、その手すら見えず本当に自分という身体があるのかも分からなくなってくる。
あるのは闇と、恐怖。耐え切れずに悲鳴を上げ、闇雲に暴れた。
その時、闇の中に一筋の光が差し込む。冷たい闇に溶けた身体が暖かい何かに包まれて形を取り戻す。
「・・・・ロ・・・・ゾロ!」
泣きそうな声が沈んだ意識を引き上げた。
光だと思ったのは、金色に輝く料理人の髪で。暖かい何かはその男の腕だった。泣きそうな声の通りに歪められた瞳に、特徴的な眉が情けなく下がっている。
何だか、その情けない顔に安心する自分がいて、少しだけ、笑えた。
何度そんなことを繰り返しただろう。再び一時期の正気を取り戻したゾロにサンジがナイフを手渡した。
「・・・・だから、枝を削れってよ」
かいつまんだ説明に、ゾロは頷き慎重にナイフを受け取る。握った枝にナイフを当てたが、揺れる視界と震える身体に思うように力が入らずあっという間にその枝は中央から折れてしまった。呼吸が乱れる。視界が霞む。
「う・・・」
ナイフを握ったまま震えるゾロの手に添えられたのはサンジの手だった。少し冷たい長い指。その手はもう、赤くない。
息を吐き顔を上げると蒼い瞳が見返してくる。その瞳ももう冷たい輝きは無く、優しく深い色をしている。
「大丈夫だ」
告げられる、声も。
「・・・あんな女にテメェはやらねぇ。早く戻って来いよ、ゾロ・・・。テメェと、話したいことが沢山あるんだ。皆も、待ってる」
ああ、と返事をしたはずの咽喉はまだ声を伴ってはくれず、息が漏れただけだった。
ああ、俺も、話したいことが沢山ある。皆に。・・・・お前に。
伝えきれない言葉の代わりに、目の前の作業に意識を集中する。自分を待っていてくれる、心配してくれている仲間の為に。
幾度か陽が上り、数え切れないほどの失敗した枝が山になった頃。響いてくる大声と物音にはらはらしていたクルー達は、その音の間隔が徐々に広くなっていることに気付いた。
「大丈夫かな・・・ゾロ」
「チョッパーは心配性だなー!大丈夫だって。サンジが付いてるんだ。あいつなら絶対ゾロの事守るに決まってるし、ゾロもサンジにちゃんと答えるぞ!」
「あんたって、ほんと時々妙に鋭いわよね・・・」
「おう!俺は船長だしな!」
呆れるナミにルフィが笑いかける。いや、それに船長は関係ないだろ、と突っ込むウソップにチョッパーも笑顔を取り戻す。
誰かが落ち込んだとき、ルフィはいつも軽口を叩いて場を和ませていた。意図的なのかそうでもないのか、判断は付け難いがそれに救われていたのは事実だ。
(やっぱり船長だからなのかな)
笑いながらチョッパーは、その船長から絶対の信頼を受けているこの場にいない二人が、ほんのちょっぴり羨ましいと思った。
でもきっと、自分の毛皮が気に入っているらしく、よく自分を抱えている昼寝好きの剣士がそれを聞いたら、「お前だって信頼されてるだろうが」とか呆れた様に言って、その大きな手でぐしゃぐしゃに撫でてくれるだろう。
(でも、そうすると毛玉が出来てしまうから、絶対に言わないけど)
早くまた、一緒に昼寝したいな、ゾロ。
キッチンの壁に立てかけてある三本の刀に傍に行き、そっとそれに触れてみる。白い鞘に納まっている刀が窓から差し込む光を受け、大丈夫よ、と笑っている様に見えた。
それから更に一日経ったその日の夕方。昨夜から一度も大きな物音や声がしなかったのに気付いたのはウソップだった。
サンジがゾロに付き合って倉庫に籠もっている間、自然に食事当番になっていた為、今も揃ってキッチンに立っているロビンとナミの背中に声をかける。
「なあ。昨日からやけに静かじゃないか?」
「え?・・・・そういえば・・・・」
「な?もしかして、うまくいったのかな!」
顔を見合わせ期待に口元を綻ばせた二人に、野菜を刻みながらロビンが話に加わった。
「もしくは、二人共限界に達して力尽きたか・・・」
「ロビン〜〜・・・。何でお前はそう不吉な予想ばっかりなんだよ・・・」
「あら。ごめんなさい」
「もう。確かめてみればいいのよ」
軽く鼻を鳴らしたナミが、キッチンの隅で丸くなって寝ているルフィとチョッパーの元へずかずかと歩み寄った。ルフィの耳を指でつまみ、大声を上げる。
「起きろー!!」
「う、うわあ!!な、なんだ!?」
突然の騒音に跳ね起きたルフィとチョッパーは、半目のまま周りを見回した。
「昨日から倉庫から物音がしないのよ。ルフィ、ちょっと見てきて」
「んん・・?・・・・!おう!わかった!」
威勢のいい返事とは裏腹に寝ぼけ眼のままキッチンから飛び出そうとしたルフィは、同時に内側に開かれた扉に衝突し、ふぎゃ、と抜けた声を上げてその場に崩れ落ちた。
「お?おお。悪い」
開かれた扉から顔を出したのはサンジだった。赤くなった鼻を擦るルフィにおざなりに謝る。それを認めたナミは、手にしていた食材を放り出すと彼へと詰め寄った。
「サンジ君!ゾロは!?大丈夫なの?」
その言葉にクルー全員の視線がサンジに集中する。それを受け、肩を竦めたサンジは後ろに回していた手に握っていた物を差し出した。
握られていたのは小指の太さ程までに細く削られた長い枝。
「ゾロは、もう大丈夫だ。今シャワー浴びさせてる。もうすぐここに来るよ」
沸きあがった歓声に微笑んだサンジは、キッチンに立つロビンへと近寄った。
「今まで食事の準備お願いしててごめんね。後は俺に任せてくれるかな。アイツ、碌に食ってないから何か胃に優しい物作ってやらないと」
申し訳なさそうに眉を下げた料理人に柔らかく笑いかけ、ロビンはその場所を本来の主人へと明け渡す。
扉の傍に座り込んだルフィが、喜び合うクルーの声やキッチンに漂い始めた香りに何の反応も見せず、黙って鼻を擦っていたのに気付いた者はいなかった。
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