控えめにその扉が開いたのは、それから暫く経ってからだった。ゆっくりと足を踏み入れた人物は、自分に集中する視線に一瞬驚いたように立ち止まり、翡翠色の瞳を瞬かせる。そしてどこか照れくさそうに眉を下げてから片手を挙げて見せた。
「・・・よう」
僅かに掠れてはいたが、低く張りのある声が一同へ向けられる。薬との戦いの間、殆ど食べ物を口にしていなかった為痩せてしまっていたが、しっかりと自分の足で立つゾロが其処に居た。
「ゾ・・・・ゾロ〜〜!!」
既に涙でぐしゃぐしゃになった顔のままウソップとチョッパーがゾロへと飛びついた。短く声を上げ僅かによろめいたが、ゾロはしっかりと二人を受け止める。
「・・・ゾロの癖に心配かけてんじゃないわよ!!」
怒鳴りつけたナミの声は震えていて、整った顔はウソップたちを同じ様に涙でぐしゃぐしゃだった。傍ではロビンが優しく微笑んでいる。キッチンに向かって背を向けたままのサンジだったが煙草を銜えた口元が柔らかく緩んでいた。
泣きじゃくるナミの頭を軽く撫でたゾロは、頭にしがみ付いたままのチョッパーを降ろしその頭も優しく撫でてやる。
「・・・悪かったな」
「ううん。ゾロは悪くないよ。・・・・戻ってきてくれて、良かった」
涙を流したまま笑うチョッパーにもう一度頭を撫でようとしたゾロは、突然自分に向けられた殺気に身構えた。
どがっ!!
しかし、僅かに反応が遅れたことと十分でない体調にその衝撃を受け止めきれず、ゾロの身体はキッチンの壁へと叩きつけられた。
「ルフィ!?」
突然の行動にナミが悲鳴を上げて、ゾロを殴り付けた人物の名を呼んだ。
「何すんだよ、ルフィ!ゾロはまだ体調が十分じゃないんだぞ!」
非難するチョッパーの声を無視し、ルフィは厳しい瞳のままゾロへと歩み寄った。
「・・・・何が悪かったと思ってるんだ」
低く呟いたルフィは、再びゾロへと拳を振り上げる。
「ルフィ!!」
それを止めようとしたナミの肩を引き止めたのはサンジだった。睨む様に振り返ったナミに黙って首を振ってみせる。
振り下ろされた拳は、今度はしっかりと受け止められた。燃えるような黒い瞳と鋭く光る翡翠色の瞳がぶつかり合う。
「・・・ゾロ。何が、悪かったと思ったんだ」
「・・・・」
「捕まった事か?皆に心配をかけたことか?」
「・・・・ルフィ」
「違うだろうが!!」
拮抗する腕を弾き飛ばし、倒れ込んだゾロの上に跨ったルフィは三度振り上げた拳をゾロの顔の横の床へと叩き込んだ。
「お前が謝らなきゃいけないのは、その事じゃ無ぇ」
じっと見上げる翡翠色の瞳に、悔しそうに歪められたルフィの顔が映った。
「俺達に血で汚れるなって、汚れるのは自分だけでいいなんて、言ったことだ!!」
告げられた言葉は、息を呑んで事の様子を見つめていたクルー達の胸を強く揺さぶった。
それはゾロがサンジの腕の中に崩れ落ちたときに呟いた言葉。それを裏付ける様に彼は傷付いた身体で、自分達の代わりにあの屋敷にいた人間を殺した。
それがゾロの優しさだと、分かっている。しかしそのゾロの言葉が全員の心に澱の様に溜まり余計にやるせない気持ちになっていたのも、また事実だった。
目を見開き、四肢を投げ出したゾロの上に跨ったまま、ルフィは胸倉を掴んだ。
「何で俺達が汚れてないと思うんだ」
「・・・・・ルフィ」
「何で自分だけでいいなんて思うんだ!」
掴み上げる腕が震える。悔しそうに歪んだ瞳に透明な膜が張られていた。ゾロはそっと腕を持ち上げ、震えるルフィの腕を軽く叩く。
「・・・ルフィ。苦しい。放してくれ」
静かに近寄ったロビンが俯いたルフィの腕を取り立たせる。それからゾロへと手を差し伸べたが、ゾロは首を振り自分でゆっくりと起き上がった。
「・・・・お前達は、人を殺したことが無い」
低く囁く様に話し始めた内容に、全員が身を固くする。その一人一人の顔を見回しながらゾロは続けた。
「たった今まで生きていた人間が、只の物になる感触を知らない。ひとつの命を狩る重さを知らない」
「そんなの・・・!」
堪らず声を上げたナミは、己に向けられた深く静かな眼差しと次に告げられた言葉に、再び息を呑んだ。
「・・・相手を殺した後の、殺すことが出来た自分の力への高揚感を、知らない」
そう言って自嘲気味に笑った顔は、痛々しくて何処か儚さを感じさせた。先ほどとは又違った意味の涙を流したチョッパーが、ウソップの足にしがみ付く。
「そんなの、お前達は知らなくていいんだ。知らないで、いて欲しいんだ・・・」
「それが、お前の言う汚れてないってことなのか?」
ロビンに腕を取られ俯いたままのルフィが静かに問い掛ける。
「人を殺してなきゃ、汚れてないのか。誰かから、そいつの大事なものを奪ったことは汚れてるって言わないのか」
「ルフィ?」
「俺は!・・・自分の無鉄砲からシャンクスの腕を奪った。俺の所為でシャンクスは大事な腕をなくしたんだ!」
勢いよく顔を上げたルフィの瞳からは大粒の雫が零れ落ちていた。驚いて口を閉ざすゾロに詰め寄ろうとして、ロビンに押し止められる。
「本当に綺麗な奴なんて何処にいるんだ!俺たちは海賊だぞ!それ位の覚悟はしてるんだ!そんな事を怖がって仲間一人に全部押し付けるのは、汚くないのか!!」
言い募る言葉の間に嗚咽が混じる。ごしごしと目を擦るルフィの手を今度はやんわりと止めたロビンが優しく声をかけた。
「剣士さんは、敵でもない人を殺したいと思う?」
その質問に、ゾロは首を振った。
「今まで、何の関係も無い人を斬った?」
再び首を振る。
「人を殺すという行為に酔ったりしたわけじゃない。なら、なぜ貴方は汚れているの?人の命の重さというものを知っている。その重さを、皆に背負わせたくないと思ってくれているだけなのに」
「俺は・・・・」
「それが貴方の優しさだと分かっているわ。けれど皆、何かしらの罪を背負っている。貴方がそうだと認めていなくてもね。だからこそ船長さんは貴方の言葉が辛かったのよ」
「・・・・」
優しく諭すような言葉に、ゾロはじっとロビンを見上げた。
「俺は、誰かの為に刀を振るったりしない」
「ええ」
「俺が刀を握るのは、自分が強くなる為だ」
「分かっているわ。皆も、私も」
見透かすような微笑に溜息をついたゾロは、ゆっくりと立ち上がると顔を歪めたままのルフィへと歩み寄った。自分より少し低い頭へ手を伸ばし、くしゃくしゃとその頭を撫でる。
「悪かった」
「・・・・二度と、あんなこと言うな」
「ああ。約束する」
「・・・・よし。なら、許してやる」
泣いた所為で赤くなった鼻のまま、ルフィが笑う。
ようやく、キッチンの空気が和らいだ。
そうなると空腹を思い出したのか男連中が食物を強請り始めた為、結局ナミとロビンがサンジを手伝い久しぶりに全員揃った食卓が開かれたのだった。
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